恋は乗り越えられない試練を与えない。

 照れたように笑う富澤の後ろで、控えめに笑う彼女が昊と内村に頭を下げる。
「織江といいます。彼がいつもお世話になっております」
 いや、世話になっているのは昊の方だが、これはつまり、離婚していた妻と復縁したということだ。野球に誘って振られたと言っていたが、この短期間で逆転したらしい。
「ずっと頼み込んでいて、今日漸くOKを貰えたんだ。だから気が変わらないうちに書いてもらおうと思って。内村と原田さんにはここを」
 証人欄を指されて仰天する。
「そんな、俺なんて」
「何言っているんだよ。お前らに書いてもらいたくて待っていたんだから」
 富澤だけでなく織江も柔らかく微笑んでいるから困ってしまった。こんな得体の知れない人間が証人でいい筈がない。
「でも、印鑑なんて持っていないし」
「婚姻届けは印鑑不要になったんだよ。富澤さん、いつか復縁してもらうつもりで大量に婚姻届けを持っていたから、一枚くらい書き間違えても平気だし」
 リビングのテーブルで内村がさらさらとサインしてしまう。
「はい、昊も」
 ペンを渡されて従うしかなかった。どうなっても知らないぞという気分で署名する。
「ありがとう。じゃあ、週明け二人で出しに行くから、出したら連絡するな」
 週明けなら今日急いで署名する必要なかったじゃないかと思うが、二人が幸せそうだからまぁ、いいかと思う。
「ご夕飯にはまだ早いですけど、よかったら軽く食べませんか?」
「お祝いだ。酒もあるから寛いでくれ」
 どうやらそのつもりだったらしい。二人に言われて、四人で小さな宴ということになった。食事の他にシャンパンまで用意されていて、この状態で昊が来なかったらどうするつもりだったのだと思う。
「昊、お酒は大丈夫?」
 内村に小声で聞かれて、大丈夫だと答えた。自分も知ったときには意外だったが、脳腫瘍の術後の患者に、特に食べ物の制限はないのだ。気休め的に身体にいい食べ物を摂ってみたりするが、結局は食べやすいものを食べている。
「身体、しんどくなったら言って」
 そう言ってシャンパングラスを渡してくれる内村が、以前よりずっと大人びて見えた。以前、世間の常識に疎い彼を護ってやりたいと思った。すっかり変わってしまった立場にツキリと胸が痛む。彼はこれからもっと素敵な男性になって、いずれ昊ではない伴侶を見つけて幸せになる。
「好きなものを召し上がってください。この人にこんなに信頼できる部下がいたなんて、ちょっと嬉しくて」
「なんだよ、それ。前のときからそんなこと分かっていただろ?」
「以前は会社のことなんて少しも話してくれなかったじゃないですか。口を開けば野球の話ばかりで。仕事のことを話すほど信頼されていないんだって思って哀しかったんですよ」
「違う。ただ、今よりちょっと野球熱が酷かっただけだ。野球の話を聞いてほしくて仕方なくて」
 それを抑える約束で再婚ということになったという。部下たちと会わせてもらえたことも彼女にとっては嬉しいらしい。それは少し昊の自尊心を回復させる。病気が分かってからずっと、自分の存在意義を見失っていたから。
「そうだ。頂き物のフルーツがあるから食べましょう。この人フルーツなんて食べないから」
「フルーツってコスパが悪い気がしてな」
「そういうことばかり言っているとまた離婚されますよ」
「されますよって、離婚を言い渡した本人が言うな」
 息の合った掛け合いに、内村と顔を合わせて笑う。一度離婚はしたが相性のいい二人なのだろう。こんな大切な場にいていいのだろうかと思っていた昊も、次第に馴染んでいく。
「じゃあ、俺らはそろそろ」
 内村がそう言ったところでお暇することになった。
「今日は本当にありがとうございました。これからも主人をよろしくお願いします」
 きちんと頭を下げられて恐縮した。
「二人には感謝してもしきれないからな」
 続く富澤の言葉に首を傾げる。退職してからずっと会っていなかったのに、何故昊まで感謝されるのだろう。
「そうだ。待って」
 織江がパタパタとキッチンに戻って、腕に紙箱を抱えてきた。
「これ、ケーキなんですけど、お二人でどうぞ」
「いえ、そんな」
 高級店のものだと分かって辞退する。だが彼女はケーキの箱を引かない。
「実はサプライズにしようと思って、二人とも同じものを買ってきてしまったんです。流石に食べきれないし、冷蔵庫も一杯になってしまうので、私たちを助けると思って」
 そう言われれば断れない。
「まぁ、二人で食べてくれ」
 楽しげに笑う富澤を不思議に思っていれば、横から内村が受け取ってしまう。
「遠慮なく頂きます」
「ああ。一人じゃ食べきれないだろうから、ちゃんと二人で食べるんだぞ」
 シックなブラウンの箱と彼の顔を交互に見ながら、漸く思惑が読めてきた。
「それ、崩すといけないからタクシーで帰れ。これ、タクシー代」
「いえ。それくらい俺が出します」
「お、それは頼もしい。けど受け取ってくれ。俺のせいにしておけば上手くいくだろ」
 そのやりとりは内村が折れることになる。
「……富澤さんに悪いから」
 マンション前で言われて、結局帰りもタクシーに乗ることになった。なるほど。せっかくタクシー代を貰ったのに、厚意を無駄にはできないという訳だ。
「ホールケーキだから、一度俺の家に寄っていって。半分にしたらまた送るから」
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