恋は乗り越えられない試練を与えない。

 ぴたりと足が止まった。ゲイ? 多様化が進む世間とはいえ、躊躇いなく白状するのは珍しい。
「嘘なんか吐く訳ないだろ?」
 内村さん? 声の主に気づいて、続きを聞かずにいられなかった。
「じゃあ、どうしたら信じるんだ?」
 どうやら相手は若い女性社員らしい。彼女が何を言っているかは分からないが、返す内村の言葉はしっかり聞こえる。彼の声は少し特徴的。男性にしては高めで時々裏返る。神様が声にだけ遊び心を持たせたみたいな声には賛否両論あるが、昊はそんな声が好きだった。いや、何を考えているのだ。察するに女性に告白されて困っている。困ってゲイだと嘘を吐いたのだろうか。
「こんなところまで呼び出しておいて、酷いのはどっちだよ」
 おいおいと思う。苛立つ気持ちは分かるが、若い女性にそんな言い方をすれば逆効果だ。
「分かりました。じゃあ、ここから飛び降ります」
 流石にそこは聞こえた。
「ちょっと、何言っているの!」
 盗み聞きを気にしている場合ではなかった。扉を開けて声を上げる。見れば女性社員が手すりを越えようとしている。
「ああ、原田さん、残業?」
「それどころじゃない! 早く止めて!」
 飄々と言う彼に声を荒らげた。
「二階から落ちたって死にはしない」
「そういう問題じゃない。つべこべ言わずに手伝って」
 正気を失くした彼女は驚くほど力が強くて、しぶしぶといった様子で手を貸す内村と、なんとか腕を引いて廊下に戻した。内側から扉の鍵をかけて、簡単に出られないようにしてしまう。
「新入社員の子かな? あのね、社員がトラブルを起こすと騒ぎになって会社自体にも悪評が立つんですよ。うちは個人客相手のカード会社なんだから、顧客が減ったら大問題でしょう?」
 何故自分がこんなことをしなければならないと思うが、内村が役に立たないから昊がなんとかするしかなかった。興奮している彼女を宥めるために言葉を尽くす。
「顧客が減った分の賠償をしろと言われたら大変でしょう? 何千万とか、何億の話になったらどうするの。大人しく家に帰って明日からも普通に仕事をしてくれるなら誰にも言わないから、今日はもう家に帰りな」
 ちょっと大袈裟に言ってやれば、賠償という言葉に彼女が怯え出した。
「でもこの人、ゲイだって嘘まで吐いて私を追い払おうとして」
「ああ、残念だけど彼がゲイなのは事実ですよ。俺、同期だけど、いつも彼の話を聞いているから」
 これはもう不可抗力だと思った。事実がどうだろうと、そう言っておくのがこの場の最善だ。
「こんな変人でコミュ障の男のことなんて忘れて、もっとマシな男を見つけるといいよ。さ、分かったら家に帰って、おいしいものでも食べて」
 昊が内村を貶したことで少し気が晴れたのか、ぺこりと頭を下げて彼女は帰っていった。内村に謝る気はないという態度。廊下を走る後ろ姿。自殺するようなタマではないから放っておいて大丈夫だろう。
「ありがとう。助かった」
 彼女が見えなくなったところで言われて、改めて彼の顔を見上げた。
「いえ……」
 気の利かなさに文句の一つも言ってやろうと思ったが、綺麗すぎる顔が昊から言葉を奪ってしまう。
「えっと、すみませんでした。盗み聞きした挙句、変人だのコミュ障だの言ってしまって」
 逆に詫びれば彼が笑った……ように見えた。左の口角が僅かに上がる。多分笑ったのだろう。
「事実だから」
 自虐的でもなく言って、彼は廊下を戻っていく。脇にセンスのいい鞄を抱えている。もう仕事は終わっていて、執務室に戻らずそのまま帰るのだろう。
「まだ仕事すんの?」
 これ以上話すこともない。昊の方は仕事に戻るために執務室の扉に入出カードを翳していれば、振り向いた彼が聞いてきた。
「ですね。仕事が大量に残っているので」
「ああ。そっちの上司はみんなクズだからな。仕事配分も人員管理もできないゴミだ」
「それはちょっと言い過ぎ」
 言い草に笑ってしまう。だが彼のお陰で鬱々とした気持ちが少し晴れた。他人に興味のなさそうな彼が、顧客事務課の惨状を知っていてくれたことに救われる。
「ありがとう。内村さんが扱き下ろしてくれたお陰でちょっと回復した」
「嬉しいの?」
「うん」
 素直に返せば、彼が納得できないというような顔で眉を寄せた。照れているのかと思えば微笑ましい。なんだ、人に興味がない訳じゃない。普通に人間らしい男じゃないかと、同期だというのに親心のような気持ちになる。眉を寄せようとなんだろうと美しいままの顔立ちが小憎らしい。
「また明日」
「ああ」
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