恋は乗り越えられない試練を与えない。

 安井のことなら話せる二人がおかしかった。核心に触れない会話がずっと続けばいいと思う。今、Kオリオンズはリーグ二位。充分優勝を狙えるゲーム差だと、散々野球の話をしたあと、覚悟を決めて彼を正面から見据える。
「酷いことを言って勝手に消えたことを謝ります。仕事も手伝ってもらったのに」
「そんなことはいい」
「三山課長の胸倉を掴んだって聞きました。俺のことで彼を恨んでいるのなら、どうかもう忘れてください。内村さんには平穏な職場生活を送ってほしい」
「そんなことを言われに来たんじゃない」
 彼の声にやるせなさが混じる。怒りを抑えているのかもしれない。それくらい酷いことをした自覚はある。昊に怒りをぶつけて気が済むなら、そうしてくれていい。
「昊が好きなんだ」
 だが出てきた言葉は違っていた。
「昊がいないと生きている意味が分からない。ずっと会いたくて仕方なかった」
「透輝」
 ついそう呼んでしまって、失態に目を閉じる。
「昊を護れる男になりたくて努力したんだ。まだ足りないかもしれないけど、絶対昊を支えるから、傍にいてほしい」
 ありがたい言葉だが、昊はそう言ってもらえる人間ではない。
「課長にしたことを気にしているなら、そんな必要はない。あれは課長が悪かったし、昊も体調が悪かった。あの日のことで俺が昊を嫌うことはない」
「内村さん」
 もう一度そう呼べば、綺麗な顔が傷ついたように眉を寄せる。だがもう透輝とは呼ばない。
「あの日、俺は体調なんて悪くなかった。あれが俺の本性。ああやって自分が抑えられなくなって、人を傷つけるような人間なんですよ、俺は」
「嘘だ」
「嘘じゃない。一緒にいたのはたった数ヵ月。そんなんで人の本質なんか分かる筈がない」
 後遺症の話をするつもりはなかった。一度話したら全部そのせいにして甘えてしまうから。
「病気のことを話してほしい。今も苦しんでいるなら一緒に解決策を見つけたい」
「俺は病気なんかじゃない。単にキレやすくて、今はそれを抑えて暮らしている」
「じゃあ、それでいい。どんな昊でも、俺は好きだから」
 ここまで言われて嬉しくない筈がなかった。だが受け入れる訳にはいかない。彼は幻想を見ているだけだ。そこから解き放たれて幸せになってほしい。
「内村さんは初めての恋人に縋っているだけです。俺しか知らないから自動的に俺が一番なだけ。もっと他に目を向ければ」
「何が悪い」
 珍しく言葉を遮られた。
「一人しか知らなくて、その一人だけを好きでいることの何が悪い。俺は昊以外を知るつもりはない」
「他の人と付き合ってみれば気持ちも変わります」
「変わらない。俺は昊がいい」
 大声を上げる訳ではないが、不穏な空気に気づいた他の客がちらちらと視線を寄越している。よろしくない状況。胸がざわざわと騒ぎ出す。
「ごめん。今日は帰る」
「今日帰ったら、もう会えなくなるだろ」
 らしくない強引さで、テーブルの上で手を掴まれた。
「離してください」
「離さない。せめて連絡できるようにしてくれるまで絶対に」
「内村さん、どうか」
 そこで頭痛に襲われる。腫瘍は取り除いた筈なのに、時々昊を苦しめるようにやってくる痛み。
「昊?」
 手を離した彼が不安げに呼ぶのに応えられない。
「……ごめん。ちょっと体調が悪い」
 それだけ言ってテーブルを離れた。外の空気に当たりたくて店を出る。出た瞬間、予想以上の日差しに建物の前で蹲ってしまう。こんな風になるのは久しぶりだ。ずっと職場への往復と近所の買い物くらいしか出掛けていないし、感情を乱すような状況は避けてきたから。
「昊!」
 テーブルの上を片付けてから追ってくれたのだろう。昊に気づいた彼が身体を屈めて背中に触れる。
「タクシーで病院に行こう。待って。すぐ……」
「大丈夫」
 彼のシャツの袖を引いて止めた。
「大丈夫。もうよくなったから一人で帰れます」
 無理をして立ち上がればまた頭痛に襲われる。手術後はこんな風に上手くいかないことがよくあるのだ。
「……送る」
 病院は頑として拒否されると分かったか、彼が昊の背に腕を回して言った。
「五分で来てくれるから」
 昊の返事を待たずに配車アプリでタクシーを呼ぶ。反抗する気力もなくて、言う通りにするしかなかった。頭痛のせいもあるが、彼に普通でない身体の状態を知られたことに落ち込んでいる。
「今、どこに住んでいるの?」
 タクシーを待つ間に聞かれて素直に答えた。
「兄さんの部屋に住まわせてもらっているんです」
「そっか。それなら安心」
 牽制のつもりの言葉にあっさり返された。今は昊の身を案じることだけ。その様子に困ってしまう。
「家の前まで行ってもらおう」
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