恋は乗り越えられない試練を与えない。

 何故か頭を下げられた。
「富澤さん、何をしているんですか。俺相手にそんな……」
「連絡もブロックされているって聞いた」
 顔を上げて、本人みたいに辛そうな顔で訴えられる。
「あいつと原田さんがどこまでの関係だったかは知らない。でもあいつにとって原田さんが誰より大事な存在だったことは分かる。自分の信念を変えるほどに」
 自分はそんな風に言ってもらえる存在じゃない。どうかあなたが彼の目を覚ましてやってほしい。そう思うのに上手く伝えられない。
「何かあったら相談しろよと言い続けて、ずっと流されていたのに、原田さんのことでは力を貸してくれと頼まれた。そんな風に人間らしくなっていくあいつを見るのが嬉しかった。俺もそんな偉そうなことを言える人間じゃないけど」
「富澤さん」
 球場を出る若者たちの声を背中に聞いた。梅雨なのに天気がよかった。痛みや苦しみを見ると思っていた試合は、そんな誤解が申し訳なくなるほど爽やかだった。いくつもの出来事に気持ちを動かされる。
「頼む。一度でいいから会ってやってくれ。俺の顔を立てると思って」
 もう一度頭を下げられて慌てた。
「分かりました。分かりましたからそんなことしないでください」
「じゃあ、会ってくれるんだな」
 彼が策士の顔になって、あれ? と思う。
「よかった。じゃあ、ここからすぐのカフェで待たせているから、今から行こう」
「……え?」
「歩いて五分もかからないから」
「いや、待って」
「どうして? 会ってくれるんだよな」
 彼を侮っていたと漸く気づいた。仕事ができるだけではない。初めからこれを狙っていたのだ。
「心の準備というものが」
「日を置くと気が変わっちゃうから。ほら、俺も行くからサクッと会ってこよう」
 いつのまにか肩に手を置かれて歩いている。
「喜ぶぞ、あいつ。試合終了の十分ぐらい前に店にいろって言っておいたけど、多分一時間前には来ているだろうな」
 だとしたら、これ以上待たせるのは申し訳ない。富澤に礼を尽くしたいと思っていた。非常識な離職が心に引っ掛かってもいた。それは内村も同じ。世話になった礼を言いに行く。それだけだ。心に言い訳をして彼の隣を歩いていく。
「あ、ここだな」
 すぐに建物が見えて、富澤がドアを開けた店内は広々としていた。球場帰りの観客が一休みしていくのにちょうどいい場所だろう。Kオリオンズの帽子やメガホンを持った客も目につく。
「いたいた。あんな隅っこに座らなくてもいいのに」
 富澤の視線の先に彼を見つけて足が止まった。八ヵ月ぶり。相変わらず光が滲み出るように美しい姿の彼が、こちらに気づいて立ち上がる。
「コーヒーでいい? 俺買ってくるから二人で話していて」
「待ってください。コーヒーなら俺が」
「大丈夫、大丈夫。取って食われたりしないよ」
 そう言って肩にぽんと手を置いて離れていく。店内に立ったままでいるのも迷惑だから、仕方なく内村のいるテーブル席に向かう。
「久しぶり」
 ぽつんとカップが一つだけ置かれたテーブルの前で、彼が先に言葉を発した。
「ごめん。騙すみたいになって。どうしても昊に会いたいって富澤さんに相談したんだ」
「いえ。一度謝罪はしないとと思っていたから」
 その後お互い何も言えずに立ち尽くしていれば、カップを二つ持ってやってきた富澤に苦笑される。
「何二人して立っているんだよ。まぁ座れって」
 言いながら、自分は座らず二人の前に一つずつカップを置く。
「じゃあ、あとは若い者同士で」
「ちょっと待って」
 椅子に落ち着く間もなく、立ち上がって彼の袖を引いた。
「どういうつもりですか」
「どうって、積もる話もあるだろうから」
「富澤さん」
「検討を祈る」
 最後のは内村に向けて言って、彼は去っていった。逃げ出したいが、興味深げにこちらを見ている店員に気づいて、椅子に戻らざるを得なくなる。
「さっき、二人がどこまでの関係かは知らないと言われましたけど、嘘ですね」
「いや、本当に知らないと思う。知っているのは、俺が昊を好きってことだけ。俺は今でも好きだから」
 躊躇いもなく言われて困ってしまう。
「内村さん」
「何、その呼び方」
「恋人じゃなくなったから」
「随分一方的だったけど」
 事実だから俯いてしまえば、小さくごめんと声がする。
「そうだ。安井、凄い活躍してるじゃん」
 重くなった空気を払うように彼が話を変えた。
「うん。八回の神だし、ノーアウト満塁で出されても守りますから」
「もうすっかりKオリオンズの選手だな」
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