恋は乗り越えられない試練を与えない。

 スマホのメッセージ着信で我に返った。表示された名前に驚く。富澤とみざわせい。仕事を手伝ってもらっていた時期に連絡先を交換したが、これまで一度もやりとりをしたことはなかった。きちんとお礼もせずに辞めたことを怒っているのだろうか。だとしても、もう昊が退職してから八ヵ月も経っている。今更どうして。ぐるぐると考えて、覚悟を決めて画面に触れる。
『Kオリオンズの二軍戦のチケットが手に入りました。近場です。よかったら一緒に行きませんか? Kオリオンズが好きだと聞いていたので』
 現れた文字に瞬く。
『お久しぶりです。嬉しいですけど、相手が俺でいいんですか? 送信先間違っていません?』
『いや、間違っていない。実は元妻を誘いましたが、あっさり振られました。だから一緒に行ってください』
 昊がしでかしたことなどなかったように返る文字に、ふっと笑う。彼と会っても、嫌なことを思い出さずに済みそうだ。
『では行かせてください』
 そんな訳で土曜の午後に会うことになった。
 約束の土曜は梅雨の合間の晴天だった。ドームじゃない球場だから雨が降らなくてよかったと、先に来ていた彼が笑う。
「色々とご迷惑をおかけしました。お世話になったのにお礼も言わずに退職して」
「いい、いい。俺相手にそんな硬くならないで。今日は単純に野球を観るために誘ったんだから」
 変わらない彼の人柄に救われた。入場ゲートを潜って、然程混んでいない席に座って球場を眺める。前の職場の人間に会うなんて自殺行為だ。そう思わないでもなかったが、来てよかったと思う。富澤にお礼も言えていない。それもずっと引っ掛かっていたから。
「お、あの選手テレビで観たことあるな」
「確か怪我で二軍で調整中だったような」
「その割に元気だな。表情もいい。原田さんも見てみな」
「おお、よく走りますね」
 オペラグラスを借りて観た先では、明るい表情の彼が試合を引っ張っている。一軍だろうと二軍だろう、自分は野球ができて嬉しいと言っているようだ。それは少し都合のいい解釈だろうか。だがこれが二軍戦だということを忘れてしまいそうに、選手も観客も真剣だ。
「あの投手ルーキーですよ。ドラフトで球団が取り合った」
「どれどれ」
「あ、打たれた」
 まるで保護者と子どものように楽しんで、あっという間に三時間の試合は終わった。Kオリオンズは負けてしまったが、観客席の声に手を振って応える様子を微笑ましく眺める。言ったら失礼だが、二軍の試合はもっと辛さとか苦しさを感じるものだと思っていた。けれどそんなものはない。みな今いる場所で精一杯力を発揮している。弱い風が気持ちよくて、なんだか青臭いことを考えてしまう。
「三時間過ぎると思ったけど、きっちり終わったな。よかったらこのあとお茶でもどう?」
「富澤さん」
 ゲートを出たところで覚悟を決めた。
「内村さんに何かありましたか? それを伝えたくて誘ってくれたんでしょう?」
 足を止めて聞けば、流石だなと笑う。出てくる観客の邪魔にならないところに避けてから、彼がふと真面目な顔になって言う。
「この間、三山課長の胸倉を掴んで厳重注意になった。全く反省する様子がないから、このままだともっと恐ろしいことをしでかしそうで怖いんだ」
「そんな……」
 昊がいなくなれば、内村が課長と関わることもない。そう思っていたのに、どうしてそんなことになっているのだ。彼は自分から仕掛けるようなタイプではなかったのに。
「原田さんが退職してから、三山課長は一度コール部門に行かされたんだ。課長補佐としてな。流石に原田さんへの仕事の振り方はおかしかった。彼が怒るのも当然だって、他部署の人間が揃って声を上げてな」
 前の会社の情報を遮断してきたから当然だが、そんなことになっているなんて知らなかった。おかしくなった昊が暴走したと言われているかと思ったのに、声を上げてくれた人間がいる。ありがたいと思う。だがそれより内村のことだ。
「残念ながらと言うのか、三山はこの四月から顧客事務課の課長に復帰した。彼がいない間は外部から来た役席が課長を務めたり、他部署から派遣を借りてきたりしてなんとかやっていたんだ。でも三山が戻ってヘルプの課長は帰っていって、派遣も元の一人体制に戻された。そこにコール部門から引っ張った主任が一人入ってな」
 その後は聞かなくても目に見えるような展開だった。課長は昊の件の反省もなく、新しく来た主任に昊と同じことを命じているという。一時間ほど残業する時期もあったが、主任が仕事に慣れた頃から、また育児を理由に帰るようになった。主任のデスクに置かれた大量の残業書類を見て、内村がキレたという。
「多分あいつはもう、いつ辞めてもいいと思っているんだろうな。でも、無職になれば護りたい人も護れなくなるって言って止めた」
「護りたい人……」
「もう一度会ってやってくれないか」
36/47ページ
スキ