恋は乗り越えられない試練を与えない。

「──原田さん。原田さん」
 休憩タイムに物思いに耽っていて、声をかけられて我に返った。
「ここ、いいですか?」
 断ってから向かいに座るのは企画部の牧田まきたという社員だ。昊より一つ下だが、やる気とパワーはずっと年下の若者のよう。諸事情から無職になったところを大地に拾われた恩があるらしく、通常業務の他に社のヒット商品を生み出そうと日々努力している。
「またデザインを描いてきたんです。見てください」
 そんな彼に何故か懐かれて、時々アイディアを見せてもらっている。
「わ、凄い。これは膝ブレース?」
 カラフルなスケッチブックの絵に声を上げる。膝ブレースとは怪我や麻痺で上手く使えない膝を護ったり、動きを助けたりする補助具だ。
「そう。子どもは一般的な黒とか白のデザインじゃ嫌がると思うんですよ。だから色とか模様つきがあったら楽しいんじゃないかなって」
「なるほど」
 ここ原田メディカルサプライは介護用品の会社だが、大人だけでなく介護が必要な子ども向けの製品にも力を入れている。大人用と違って身体の大きさにバラツキがあるから特注になることが多いが、いいデザインが揃えば注文も増える。
「これは女の子向けなんですけど、どうですか?」
「可愛い。怪我で生活を制限されても楽しく過ごせそう」
 サポーター部分に花模様が散っている。これなら毎日つけなければならない子どもの気分も違うだろう。
「嬉しい。これも見てください」
 ページを捲れば今度はヘルメットの絵が出てくる。
「転ぶと大変だからずっとヘルメット着用で過ごす子がいるじゃないですか? そういう子どものために可愛いものを作ってみたくて」
「いいね。これも喜ばれそう」
「ほんとですか? じゃあ、特注で作っちゃおうかな。実は親戚に脳性麻痺のある女の子がいて、ずっと歩行補助具とヘルメットをしないといけないんです」
 さらりと言う彼に好感を持つ。きっとその子の家族みんなで、前向きにハンデと向き合っているのだろう。だから昊も余計な哀れみは持たない。
「その子いくつ?」
「小六だから十一歳ですね。誕生日が来たら十二歳」
「十一歳? じゃあ、これだとちょっと子どもっぽいかも」
 ふと、以前病院の待合室で見た光景を思い出す。紺色の上品なワンピースを着た女の子が、母親にヘルメットが嫌だと訴えていた。昊と同じように脳腫瘍の手術をした子だろうか。せっかくの綺麗な服に、頭を丸ごと覆うヘルメットは確かに気の毒だと思ったのだ。
「青とか紺色で大人っぽいデザインとかどうかな? 小六ならそっちの方が喜びそう」
「なるほど」
「さりげなくリボンがついた帽子みたいなデザインはどうかな? リボン部分は立体にするとか」
「それいい! お陰でいいものができそうです。描けたらまた見てください」
 ご機嫌で去っていく彼を微笑ましく眺めて、昊も執務室に戻ろうと立ち上がる。午後に十五分も休憩が取れる職場なんて夢物語だと思っていた。大地には「お前が元いた場所が異常だった。さっさと普通の職場に慣れろ」と笑われている。
「元いた場所、か」
 呟けば、こんな風に落ち着く前の怒涛の数ヵ月が甦る。
 年末の手術は完璧だった。手足や顔面の麻痺もなく、味覚や嗅覚にも異常はない。全身麻酔の影響でおかしくなった声も、二週間のリハビリでよくなった。これほど完璧な回復も珍しい。術後の昊を元気づけるためかもしれないが、医師や看護師みなからそう言われたのだ。
 だが怖れていた後遺症が一つ残った。怒りの感情が爆発して制御できない。手術前からあった症状が残ったと知ったときには絶望した。
 タレントが笑い声を上げるテレビにリモコンを投げつけたり、部屋のすぐ傍でエンジンをかけたまま止まっている車に罵声を浴びせたり、元の自分なら絶対にしない行動に振り回される。自分が自分でなくなる恐怖に震えた。本当に手術は成功したのかと疑って、大地にもだいぶ迷惑をかけた。
 医師が昊の後遺症にきちんと向き合ってくれたことが救いだった。気持ちを落ち着ける薬をいくつか試して、昊の身体に合うものを処方してくれた。朝晩二回の薬のお陰で、一応普通に暮らしている。けれどテレビは観なくなったし、電車に乗るためのイヤホンが必要になった。些細なことでキレて見ず知らずの人を殴ってしまうのではないか。薬を飲んでいても日々の恐怖は消えない。
「今の時点で続いているなら、今後完全に症状が消えることはないでしょう。上手く付き合っていくことを考えましょう」
 それが医師の結論だった。自分はこれからずっと、いつ制御を失うか分からない感情と暮していかなければならない。大地と暮らす部屋と、彼の目が届くところで働ける職場。その狭い世界で生きていこうと決めた。それが一番世間に迷惑をかけない生き方だから。
 そんな暗い海底にいるような生活の中で、唯一の希望が安井君人だった。Kオリオンズ二年目の彼が一年目より確実に力をつけて、八回の神と言われるようになった。九回を任される投手が守護神とか魔人とか言われることはあっても、八回の神は初めて聞く言葉で、一ファンの昊も嬉しくなった。彼の活躍を支えに静かに生きていこう。できるだけ新しい人間と関わることは避けて、部屋で野球を観て過ごそう。大地に恋人ができたとき、一人で暮らしていける力くらいはつけておこう。そう思って生きているのだ。
「……ん」
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