恋は乗り越えられない試練を与えない。

 互いの部屋の合鍵は持っていたが、これまで勝手に入るようなことはなかった。なのに今、彼は昊の寝室にいる。一体何があったのだろう。そこでハッとする。自分は昼間とんでもないことをしでかしている。
「……職場から電話があった?」
「ああ。とにかく家に帰っているかだけでも確認してくれってな」
 両親は今海外にいるから、職場に提出する緊急連絡先には大地のものを書いてあった。それで彼に連絡がいったのだろう。
「体調は悪くなさそうだけど、一度病院に行っておくか?」
 彼はなかなか本題に入ろうとしない。
「俺が何をしたか聞いた?」
「ああ」
「なんて言っていた?」
「執務室で暴れて帰っていったって」
 そうなる事情があったのに、酷い言い方だなと思う。だがしてしまったことは事実だから仕方ない。課長を殴って、スタッフの椅子を蹴るまで我を忘れていた。そのとき見ていたものや触れた感覚が、あとから記憶を補っていく。どんな脳のメカニズムか知らないが、とにかく自分がしたことは自覚している。
「病院には行かない。後始末をしないと」
「どうするつもりだ?」
「自主退職しかないでしょう。懲戒解雇になるかもしれないけど」
 ベッドから立ち上がって、ズキリときた痛みに顔を顰める。病は確実に昊の身体を蝕んでいる。
「おい、大丈夫か?」
「平気。薬があるから」
 スマホの電源を入れれば、会社からの他に内村から連絡が入っていた。電話が繋がらないと知って、ラインのメッセージに変わっている。
『昊、心配している。落ち着いたら一度連絡が欲しい』
 昊がしたことに触れる言葉はなかった。だが彼は昊の醜態を見ている。もう彼に好きでいてもらえる自信がなかった。なんと返していいか分からないから、言葉を返すことを諦める。どうせひと月も付き合っていない恋人だ。言葉を残さない方がいいかもしれない。考えることに疲れてそう思う。
「会社を辞める気なら俺の部屋で暮らさないか」
「うん。そうする」
 給料が入らなくなるのだから、それしかないと思った。
「引越しの手配なんかは全部俺がやるから、昊は身体を休めることを考えろ」
「うん」
「退職の手続きもやろうか」
「いい。それは自分でやる」
 それがけじめだと思った。自分がしたことの責任くらいは取る。ただ、それを終えたら何も考えずに休みたい。怠い身体でそう思う。
 人事部の役席には迷惑をかけてしまったが、まだ誰も出勤していない時間に二度職場に通って、退職の手続きを終えた。部長にも課長にもスタッフにも会いたくない。会社のルールで退職はひと月後になるが、全く困らないほどの有休が残っていた。だってずっと使わせてもらえなかった。最後の日に事務部と人事部と営業部に配ってほしいと菓子折りを置いてくる。普段なら手が出ない高級品を選んだのはせめてもの皮肉。そうして、三年半働いた会社をあっさり辞めた。内村と会うこともない。
『ごめん。別れよう』
 彼が昊の連絡を待ち続けるようなことがあってはいけないと、それだけ送っておいた。返信を見れば揺れてしまいそうで、彼をブロックする。彼は元々他人に対する執着が薄い。だからきっと昊のこともすぐに忘れる。そう思っていたのに、彼は昊の前に現れる。
「昊、やっと会えた」
 そう言ってやってきたのは、引越しの準備を進めていた日の昼だった。退職して数日で曜日の感覚がなくなって、彼が現れたことで今日が土曜だということを思い出す。
「どうして連絡をくれない?」
「……入ってください」
 玄関で騒ぐのはよくないと、機械的に彼を中に入れた。
「課長の怪我はどうですか? 殴り倒して蹴ってしまったから」
「あいつならなんでもない。大きな絆創膏をして普通に出社している」
「そう。よかった」
「昊」
 そんなことどうでもいいだろうという苛立ちを感じた。
「昊が怒るのも当然だったということは、俺も富澤さんも他の社員もみんな知っている」
「社会人なんです。手を出した方が負けなんですよ」
「だからって、どうして何も言わずに退職する必要がある」
「俺にもプライドがあります」
 どうか今だけメンタルが持ってくれと、誰にだか分からないまま祈っていた。今ここで冷静でいられたら、あとはどうなってもいい。
「閑職に追いやられて退職なんて、そんな惨めなことになりたくない。だからこれでいいんです」
「俺との関係は?」
「別れようと言った筈です。内村さんと会えば嫌でも会社のことを思い出す。それはごめんだから」
 彼と最後に会うことがあったら、言おうと決めていた台詞だった。内村さん。そう呼ぶと決めていた。
「会社の話はしない。昊が望むなら俺も転職したっていい」
「やめて!」
 胸がザワザワ騒ぎ出す。昊に関わることで彼まで堕ちていく。それだけは絶対に避けたかった。
「昊」
 まっすぐ見つめる視線に応えられなくて足元に目を遣る。
「何を隠している? 本当はなんの病気だった? 話してほしい。力になりたい」
「……無理ですよ」
 思い切り酷いことを言ってやろうと思った。彼がこの短い恋を忘れられるように。昊のことなどそれほど好きじゃなかったと思えるように。
「だって内村さんはコミュ障の変人ですし」
 一瞬、彼がとても哀しそうな顔をした。子ども時代に素直に見せられなかったものが、そのまま表れたみたいな顔。彼を傷つけることに胸が痛む。けれどここでやめれば精一杯の気持ちが無駄になる。
「俺のお陰で漸く普通のことができるようになった人に、力になれる訳がない」
 彼の顔から全ての色が消えた。そうじゃない。本当はそんなこと言いたくないと、撤回したい気持ちを封じ込める。
「……分かった」
 短く言って彼は去っていった。それが彼との最後。これでいい。これで彼は普通の生活に戻れる。懸命にそう思う。
 一人戻った部屋で声も上げずに泣いた。荷造りの段ボールがぽつぽつと置かれた部屋で、昊の周りから色も音も全て消えてしまう。
 その日、三位でCSに進出していたKオリオンズが、ファーストステージであっさり二敗目を喫してシーズンを終えた。万年最下位のチームが今年は三位だと、あれだけ盛り上がっていたのに、敗退は酷くあっけない。安井の出番もないほどの完敗。
 その年のKオリオンズ終了と共に、昊の短い恋も終わったのだ。
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