恋は乗り越えられない試練を与えない。
昊の思惑と裏腹に現実は厳しかった。病を告げられてから、まるで自覚したのが運の尽きというように様々な症状に苦しむようになる。
頭痛は酷くなった。朝特に酷いのは前頭葉に腫瘍がある者の特徴だという。手術前まで腫瘍を抑える薬を処方されているのに、声を上げるほどの痛みに苦しむ。病気を知らずに気楽に市販薬で抑えていた頃の方が幸せだったのかもしれない。
そして更に恐ろしい症状はやってきた。これまで、怒りの感情は抑えられる質だと自負してきた。心の中で悪態を吐くことはあっても表に出すことはない。散々理不尽な仕打ちにも耐えてきた。そんな我慢強さが昊から消えた。メンタルコントロールというものができなくなった。
初めに気づいたのは自宅だった。昊の部屋の向かいに新しいマンションが建つことになって、地盤工事を終えて骨組みを組み始めた時期だった。その工事の音にザワザワと胸が騒ぐ。前々から文書で知らされていた工事だし、窓を閉め切ってしまえば耐えられないほどではない。分かっているのに苛々が募る。
「煩い! どうして土曜まで工事をするんだ!」
叫んでクッションを投げつけて、我に返ってそんな自分に混乱した。どうしてしまったのだろう。こんなことで怒る自分ではなかった。怒ってもどうにもならないことに、何をしているのだろう。そんな疑問よりも、怒った瞬間の記憶がないことが怖かった。たった一瞬。だがクッションを投げつける直前の記憶がふっつりと消えている。なんだ、これは。自分の身体が自分のものじゃないみたいだ。考えるほど怖くて、だが怯えれば悪化しそうでメンタルをやられていく。
そんな自分でも把握できない状態を、恋人になったばかりの男に相談できる訳もなかった。まして相手は内村だ。両親との関係で苦しんできた彼に、恋人まで苦しみを与えたくない。そんな思いで弱音を封じ込める。
「昊、体調が悪い?」
そんな風に聞かれることはあったが、みな首を横に振った。病気のせいで怒りっぽくなっている。そんな話、誰が信じるだろう。実は性格の悪い男だと思われて終わりだ。彼の前では、理不尽にも耐える大人な自分を通していたい。何も言わないまま無事手術が成功して、何事もなかった顔で彼の恋人を続けられたらいい。
そんな都合のいい願いを粉々にする出来事はすぐにやってきた。十月上旬、手術は十二月と決まっているのに、未だ課長に休暇のことを話せずにいた時期。彼の無謀な提案が、昊がこれまで積み上げてきたものを崩壊させた。
「ヘルプを入れてもらわないと困ります」
きっかけは嘱託社員の休暇だった。腰を痛めて二週間。脳腫瘍の昊が普通に働いているのになんだと思わないでもないが、彼女は昊の事情を知らないのだから仕方ない。それでも二週間の欠員は厳しかった。
「短期の派遣スタッフでも、それが無理なら他部署の人間でも構いません。せめて半日ずつ頼めないでしょうか?」
「社員じゃなく嘱託の休暇なんだからそんなに痛手じゃないだろ? 平日で数えればたかが十日なんだから耐えてくれよ」
何故昊だけが耐えなければならないのか。もう充分に耐えていると思うが、そこはまだ冷静に話そうという気持ちがあった。だが神は無情だ。
「いいじゃないか。営業部の社員に手伝ってもらっているみたいだし、これからも好きにすればいい。年明けからは無理でも、来年度からやっぱり派遣も切ろうかと思ってな」
そこで何かがぷつりと切れた。
「ふざけるな!」
記憶はないが、課長のデスクにあったものをみな床にばら撒いて、勢いのまま彼を殴っていたらしい。それで収まらず、椅子から落ちた彼を蹴り飛ばしたあとスタッフのデスクに戻る。
「お前らもお前らだ! いつも知らん顔して遅刻や欠勤を繰り返しやがって。俺に仕事を任せて悪びれもなく帰りやがって!」
恐怖で動けない時短スタッフの一人の椅子を蹴ったところで、誰かに羽交い締めにされた。
「昊、落ち着け。どうした?」
声で内村だと分かった。動揺で執務室で昊と呼んでしまっている。沸騰したような脳でもそれが分かって、そこでふと我に返る。いつもの自分に戻るまで三秒。それが過ぎれば血の気が引いた。なんてことをしてしまったのだろう。そう思ったところで遅い。
「離せ!」
もうどうにもならないなら、どうでもいいと思った。
「昊」
「みんな狂っている。みんな嫌いだ」
子どものようなことを言って、デスクの鞄を手にして執務室を出る。
「待て、昊」
「ついてくるな!」
追ってきた内村にそう叫んだことまでは覚えている。彼が近づく前にエレベーターのドアが閉まって、それが終わりに思えた。驚くほど綺麗な男とひょんなことから恋人になってしまった、現実感のない幸せな時間の終わり。大量の仕事を熟しているうちに脳腫瘍まで抱えてしまった昊への、神様の一時の施しだったのかもしれない。
駅までの道を歩く気になれずに、散財して家までタクシーで帰った。その後は現実逃避のようにベッドに倒れ込んで眠る。スマホの電源は切ってしまった。自分だってこれくらい許される筈だ。そんな風に思うのも腫瘍のせいだろうか。とにかく眠って、事態の深刻さを知ったのは夜になってからだ。
「ん……」
「起きたか?」
目を覚ませばそこに大地の姿がある。何故かとても難しい顔をしている。
「……兄さん? どうしてここにいるの?」
頭痛は酷くなった。朝特に酷いのは前頭葉に腫瘍がある者の特徴だという。手術前まで腫瘍を抑える薬を処方されているのに、声を上げるほどの痛みに苦しむ。病気を知らずに気楽に市販薬で抑えていた頃の方が幸せだったのかもしれない。
そして更に恐ろしい症状はやってきた。これまで、怒りの感情は抑えられる質だと自負してきた。心の中で悪態を吐くことはあっても表に出すことはない。散々理不尽な仕打ちにも耐えてきた。そんな我慢強さが昊から消えた。メンタルコントロールというものができなくなった。
初めに気づいたのは自宅だった。昊の部屋の向かいに新しいマンションが建つことになって、地盤工事を終えて骨組みを組み始めた時期だった。その工事の音にザワザワと胸が騒ぐ。前々から文書で知らされていた工事だし、窓を閉め切ってしまえば耐えられないほどではない。分かっているのに苛々が募る。
「煩い! どうして土曜まで工事をするんだ!」
叫んでクッションを投げつけて、我に返ってそんな自分に混乱した。どうしてしまったのだろう。こんなことで怒る自分ではなかった。怒ってもどうにもならないことに、何をしているのだろう。そんな疑問よりも、怒った瞬間の記憶がないことが怖かった。たった一瞬。だがクッションを投げつける直前の記憶がふっつりと消えている。なんだ、これは。自分の身体が自分のものじゃないみたいだ。考えるほど怖くて、だが怯えれば悪化しそうでメンタルをやられていく。
そんな自分でも把握できない状態を、恋人になったばかりの男に相談できる訳もなかった。まして相手は内村だ。両親との関係で苦しんできた彼に、恋人まで苦しみを与えたくない。そんな思いで弱音を封じ込める。
「昊、体調が悪い?」
そんな風に聞かれることはあったが、みな首を横に振った。病気のせいで怒りっぽくなっている。そんな話、誰が信じるだろう。実は性格の悪い男だと思われて終わりだ。彼の前では、理不尽にも耐える大人な自分を通していたい。何も言わないまま無事手術が成功して、何事もなかった顔で彼の恋人を続けられたらいい。
そんな都合のいい願いを粉々にする出来事はすぐにやってきた。十月上旬、手術は十二月と決まっているのに、未だ課長に休暇のことを話せずにいた時期。彼の無謀な提案が、昊がこれまで積み上げてきたものを崩壊させた。
「ヘルプを入れてもらわないと困ります」
きっかけは嘱託社員の休暇だった。腰を痛めて二週間。脳腫瘍の昊が普通に働いているのになんだと思わないでもないが、彼女は昊の事情を知らないのだから仕方ない。それでも二週間の欠員は厳しかった。
「短期の派遣スタッフでも、それが無理なら他部署の人間でも構いません。せめて半日ずつ頼めないでしょうか?」
「社員じゃなく嘱託の休暇なんだからそんなに痛手じゃないだろ? 平日で数えればたかが十日なんだから耐えてくれよ」
何故昊だけが耐えなければならないのか。もう充分に耐えていると思うが、そこはまだ冷静に話そうという気持ちがあった。だが神は無情だ。
「いいじゃないか。営業部の社員に手伝ってもらっているみたいだし、これからも好きにすればいい。年明けからは無理でも、来年度からやっぱり派遣も切ろうかと思ってな」
そこで何かがぷつりと切れた。
「ふざけるな!」
記憶はないが、課長のデスクにあったものをみな床にばら撒いて、勢いのまま彼を殴っていたらしい。それで収まらず、椅子から落ちた彼を蹴り飛ばしたあとスタッフのデスクに戻る。
「お前らもお前らだ! いつも知らん顔して遅刻や欠勤を繰り返しやがって。俺に仕事を任せて悪びれもなく帰りやがって!」
恐怖で動けない時短スタッフの一人の椅子を蹴ったところで、誰かに羽交い締めにされた。
「昊、落ち着け。どうした?」
声で内村だと分かった。動揺で執務室で昊と呼んでしまっている。沸騰したような脳でもそれが分かって、そこでふと我に返る。いつもの自分に戻るまで三秒。それが過ぎれば血の気が引いた。なんてことをしてしまったのだろう。そう思ったところで遅い。
「離せ!」
もうどうにもならないなら、どうでもいいと思った。
「昊」
「みんな狂っている。みんな嫌いだ」
子どものようなことを言って、デスクの鞄を手にして執務室を出る。
「待て、昊」
「ついてくるな!」
追ってきた内村にそう叫んだことまでは覚えている。彼が近づく前にエレベーターのドアが閉まって、それが終わりに思えた。驚くほど綺麗な男とひょんなことから恋人になってしまった、現実感のない幸せな時間の終わり。大量の仕事を熟しているうちに脳腫瘍まで抱えてしまった昊への、神様の一時の施しだったのかもしれない。
駅までの道を歩く気になれずに、散財して家までタクシーで帰った。その後は現実逃避のようにベッドに倒れ込んで眠る。スマホの電源は切ってしまった。自分だってこれくらい許される筈だ。そんな風に思うのも腫瘍のせいだろうか。とにかく眠って、事態の深刻さを知ったのは夜になってからだ。
「ん……」
「起きたか?」
目を覚ませばそこに大地の姿がある。何故かとても難しい顔をしている。
「……兄さん? どうしてここにいるの?」