恋は乗り越えられない試練を与えない。

 さらりと言われて気持ちが和んだ。だが過去に経験があるとはいえ、流石に残りの書類を全て処理するのは難しい。
「お気持ちだけいただきます。手伝ってもらえるだけで充分嬉しいですから」
「そっか。でも俺権限で、今日からあいつにも書類チェックを叩き込むから」
 顧客事務課への当てつけのように、飲み物とお菓子を買い込んできた内村を指して富澤が笑う。
「あの部長と課長に仕返しできるならなんでもやりますよ」
「おい。心で思っていても口に出すな。口に出していいのは原田さんだけだ」
「あの無能ども。この書類の量を見て、よく平気で帰りやがる」
 ならばと、言いたいことを言ってやれば二人が笑う。
「実は面白いな、原田さん。……って、悪い。原田さんを褒めるとこいつが拗ねるからやめておく」
「俺は別に」
「俺と原田さんが仲よくなってもいいのか?」
「……よくない」
 おいおい、それじゃ、富澤が二人の関係に気づいてしまうではないか。そう思ったが、下手な言葉は墓穴を掘りそうでやめておいた。富澤はもうとっくに察しているかもしれない。それならそれでいい。
 そんな訳で三人で残業することになった。営業部の仕事もしているのに、二人の仕事ぶりがありがたい。富澤も、富澤命令で顧客事務課の仕事を覚えた内村も優秀で、二時間掛からずに全て終えてしまう。
「凄い。当欠が出たのにこの時間に終わるなんて」
 思わず隣の内村に笑いかけて、あ、しまったと思った。向かいの富澤が素知らぬ顔で書類を数えている。その顔が微かに笑っているように見えるのは、多分気のせいではない。
「当欠が出たら、課長が仕事をしておくのが普通なんだけどな」
 だがすぐに切ない顔になって言った。
「今日は俺も半休でしたし」
「それもだよ。普通病院に行くために半休だった人間に残業させるか? 課長が残業すればいいじゃないか。部長も知らん顔で帰るなよって話だよな」
「ですよね。社外通報とか、なんとかなりません?」
 内村まで話に乗り出すから焦る。
「いえ、いいんです。こんな風に手伝ってもらえて、充分ありがたいですから」
 社外通報は表向き通報者に不利益はないと言われているが、実際は誰が何を言ったかバレるという。バレて異動がセオリーだ。二人にそんな危険なことをしてほしくない。
「そうだ。ご飯に行きません? 手伝ってもらったお礼にご馳走します」
「いや、いい、いい」
 何故か富澤に苦笑されてしまった。
「俺は帰るから、二人で仲よく帰りな。じゃあな」
 そう言ってさっさと帰ってしまう。
「透輝、富澤さんに俺たちのこと話した?」
「まさか」
「ですよね。でももう全部知られているような気がする」
「あの人は鋭いからな」
 別にそれでもいいというように彼が言う。
「帰ろう。今日も病院に行ったってことは、まだ体調万全じゃないんでしょ?」
「あ、えっと、今日は検査結果を聞きに行っただけだから。ちょっと疲労が溜まっていると言われただけです」
 少し迷ったが、やはり脳腫瘍だと言う気にはなれなかった。付き合い始めの恋人には重すぎる。
「じゃあ、残業なんかしている場合じゃない」
「ううん。平気。透輝と富澤さんのお陰でだいぶ気が楽になりましたから。もうそんなに疲れは溜まらない」
「明日も手伝う」
「うん、ありがとう。営業の仕事の負担にならない程度に手伝ってもらえると嬉しい」
 そう言って片付けをする時間が幸せだった。富澤には言い表せないほど感謝しているが、少しだけ二人の時間が持てたことが嬉しい。
「送る」
「うん。俺の駅まで」
 それはお約束になって、二人で帰った夜。
 大丈夫。問題なく手術を終えて仕事に復帰できる。内村との関係も続けていける。そのとき、確かにそう思ったのだ。
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