恋は乗り越えられない試練を与えない。
まるで身体中に光を纏うように美しい男は、当然社内でも評判だった。女性たちは若いのも若くないのもみな彼と話すチャンスを窺う。そんな相手に彼は驚くほど無関心だった。仕事以外の話はせず、邪魔だと思えば若い女子社員も平気で追い払う。彼が変人とかコミュ障と呼ばれるようになるのに時間は掛からなかった。内村は営業部で昊は事務部。他部署まで情報が入ってしまうほど、彼の言動は注目されていたのだ。
後輩女性にも冷たい男。営業先でだけ上手く話すスクリプト人間。飲み会は堂々と欠席する非常識。同じ職場の仲間にそこまで言わなくてもいいのにと、彼が酷い言われ方をするたびに思った。だが昊が励ましに行く訳にもいかず、悪口があまりに酷いときだけさりげなく注意する。そう間接的にしか関わることがなかったし、別に関わりたいとも思っていなかったのだ。
そんな関係に変化が訪れたのが入社四年目の春だった。それまでも同じフロアにあった営業部と事務部が、配置換えですぐ隣で仕事をすることになった。それまでよりずっと内村が傍にいて、ふとした瞬間観察する。目の保養。だが近くにいれば彼がコミュ障と言われる所以も分かるというものだ。
「おはよう、内村くん。人身事故だったでしょ? 電車遅延していなかった?」
「はい。遅れていましたね」
「……」
その日も秒で会話が終わってしまった女性社員に同情した。普通は「混雑していて大変でした」とか、「いつも早めに出ているので遅刻しないで済みました」とか言葉が続くものなのに、彼にはそれがない。
なるほど。聞かれたことに端的にしか答えない。彼にはとってはそれが普通でも、相手によっては不快。よくもまぁ、そんな男が営業部で働いているものだ。そう思って、だからどうこうできる訳でもなく、静かに彼の観察を続けていた。けれど神の出来心なのか、そんなとき彼と接点ができてしまう。
「……頭が痛い。眩暈がする。ふざけるな」
わざと声に出して言いながら、一人残業をしていた夜だった。
昊のいる顧客事務課は当時、残業をしてはいけない派遣社員が二人、四時で帰る時短社員が二人、年齢的に残業が難しい嘱託社員が一人という馬鹿みたいな配置だった。おまけに顧客事務課とオペレーション課を兼務している課長は、イクメンを自称して帰っていく。事務部長はトラブルが起きたとき責任は取ってくれるが、細かい作業までは把握していないという酷い有様だった。残業できる人間が他にいないという理由で、昊がほぼ強制的に主任になっている。
オペレーション課の主任と愚痴を言い合うことができるし、煩く指示を出されなくて楽という面もあるが、とにかく定時で終わらない仕事は一人で引き受けなければならない。残して帰れば翌日の自分が苦しむ。そんな日々を過ごしていたのだ。
「もう一人社員を増やせばいいのに」
誰かに聞かせたい訳ではないが、言葉にしないとやっていられない。そんな気持ちで、不気味に呟きながら仕事を進める。
いつもは八時に終わる残業も、今日は十時を過ぎそうだった。何故なら時短の社員が二人揃って欠勤したから。四時まではいてくれると思っていた計画が出社した途端に散った絶望は、課長も部長も理解できないだろう。いいのだ。初めから期待していない。自棄になりながら大量の書類と格闘する。
分かっている。子どもの急病は仕方ない。だが昊が毎日残業しなければならないことは仕方ないのか。主任のプライベートをぺしゃんこにして罪悪感はないのか。いや、やめよう。きっと会社は気づいていない。昊が過労で亡くなりでもしない限り気づかない。世の中なんてそんなものだ。
「縁起でもない」
いつもは無心で仕事を片付けるが、その日は絶望のせいか集中力が続かなかった。諦めて執務室を出て非常階段に向かう。二階の廊下を出たところにある踊り場は昊の密かな休憩スポットだった。忙しくて食堂や休憩室に行けないとき、そこで短い休憩を取る。このビルの契約清掃会社が優秀なのか、屋外なのに手すりも壁も汚れ一つなくて、それを見て自分も頑張ろうと思う。そんな空間なのだ。
「ん」
だが癒しの空間にその日は先客がいた。
「……休憩場所まで奪うなよ」
思わず零すが、なら仕方ないと諦めて踵を返す。そこで聞き慣れた声が耳に届いた。
「俺はゲイだから女性とは付き合えない」