恋は乗り越えられない試練を与えない。

 週明け、営業部でトラブルがあった。内村が原因ではなさそうだが、とばっちりで予定外の仕事を引き受けることになったらしくバタバタしている。そのバタバタを眺めながら、昊は普段通り大量の書類に向かっていた。社員の一人が子どもの病院通いのために遅刻してきたから、課の仕事は少し遅れ気味。余計なことを考えている暇はない。
 部長の命令だから派遣スタッフを減らさないことには同意してくれたが、相変わらず育児を理由に帰ってしまう課長を冷めた目で見送ったあと、当たり前のように一人の残業に掛かることになった。
 今日内村はやってこないだろう。午後からデスクにもいなかった。外出の仕事でそのまま直帰。寂しいようなほっとしたような複雑な気持ちを抱えて、自腹の赤ペンで書類のチェックを済ませていく。
「あ、野球……」
 無心で仕事をしていて、スマホにテキスト速報を表示させておくことを忘れていた。一段落したところで見てみれば一対七だ。今日は大敗しそうだ。同点や一点差を護るときに出てくる安井も、今日は出番がないだろう。つまらないな。そう思いながらテキスト速報を消してしまう。
 誘惑がなくなって集中できる筈なのに、仕事は思うように進まなかった。今日はタイミングが悪くて内村と朝の挨拶すらできなかった。トラブルのせいだと思いたいが、避けられていたらどうしよう。赤ペンで顎をつついて、つい仕事の手が止まってしまう。
「どんなつもりだったんだろ」
 小さく呟いて、土曜の出来事を思い返す。久しぶりの酒に酔ったとはいえ、あれはちょっと砕けすぎだった。実は引かれていたのではないか。よく喋る昊を黙らせるために暴挙に出た、とか。浮かぶのはネガティブな想像ばかりで、あのキスをプラスに考えることができない。寧ろ忘れてくれないだろうか。
「あー、もう」
 ぐるぐると考えるうちにモニターがスリープモードになってしまう。
「ダメだ、ダメだ」
 これじゃ仕事が終わらない。終わらなければ翌日地獄が待っている。明日は明日で新しい書類がやってくる。しゃんとしないと。普段コーヒーは飲まないのに、今日はつい買ってしまったコーヒーを飲み切って、もう一度書類に向かう。
 続かない集中力を経験値でカバーして、九時前にはその日の書類を片付けた。帰り支度をする前に野球ニュースを見てみれば、意外にKオリオンズが八対七で勝っている。タップして試合詳細を見てみれば、八回に安井も登場していた。一本ヒットを打たれたが、ちゃんと三人で抑えている。
「なんだ、逆転したじゃん」
 テキストを流しながらやればよかった。いや、昊が観たら負けただろうか。そこで内村の言葉を思い出す。原田さんが観たって負けない。彼はそう言ってくれた。
「……会いたかったな、今日」
 呟いて、そんな自分が切なくなった。
「帰ろう」
 僅かな期待を振り払うように片付けを済ませてパソコンを落とす。忘れ物がないか確認して立ち上がる。そこでふと足音が聞こえた気がした。廊下側から誰かが駆けてくる音が、シンとした空間によく響く。ビルの警備員だろうか。なんとなくデスクの前に立ったまま耳を澄ます。
「よかった、まだいた」
 執務室の扉を開けてやってきた人物に驚いた。
「内村さん」
「ごめん、バタバタしていて」
「いや、謝ってもらう必要は……」
 そもそもなんの謝罪だ。二人で残業時間を過ごせなかったことに対する謝罪か、それともあのキスの謝罪か。謝られたら傷ついてしまう。
「これ、今日は俺が買ってきた」
 傍に来た彼が袋から出したのはふわチョコロールだ。色気も何もないが、今日も昊と過ごすつもりだったらしい。そう知って安堵する。
「ありがとう。糖分補給したかったから、ちょっと貰おうかな」
「うん」
 彼の顔に安堵の色が広がる。だからこれでいいと思った。面倒なことは忘れて、彼と柔らかな時間を過ごせればそれでいい。
「この間」
 だが彼の方に有耶無耶にするつもりはなかった。
「ごめん。酔わないと言いながら少し酔っていたみたいで」
 彼がそう来るなら返すまでだ。
「平気ですよ。俺もだいぶ酔っていたし、いい大人が気にすることではありません」
「気にしていないの?」
「全く」
「ふーん」
 不満げに言って、彼が傍の椅子を引き寄せて座る。まるで気持ちに相応しい言葉が見つからなくて困っているというように、ふわチョコロールの個包装を弄っている。
「俺は嬉しかった。原田さんが好きだと言ってくれて」
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