恋は乗り越えられない試練を与えない。
何度も聞いていることをまた聞いてくるのは、昊がいつかは欲しいと言い出すと思っているからだ。
「ううん、いらない。テキストで充分だし、Kオリオンズが活躍したところだけ短い動画が配信されるから、それで充分」
半年前に脳腫瘍の手術をしてから、大きな画面でテレビを観るのが辛くなった。沢山の色や大きな音が入ると、眩暈がして気分が悪くなる。耐えられないほどではないから仕事なら耐える。だがそれなりにダメージを受けるから家ではやらない。幸いスマホの小さな画面は問題ないから、テキストとハイライト動画で楽しむことにしている。
「今日も勝ったよ。安井が出る日は勝つって決まっているから。流石八回の神」
「そういうのって普通九回のピッチャーに言うもんじゃないか? 守護神とかさ」
昊の安井好きを知っている彼が苦笑する。
「神は沢山いた方がいいでしょう? 八回にも神がいるのはKオリオンズだけなんだから」
「はいはい。今年は優勝するといいな」
「優勝したらCSに連れていってね。社長ならコネでチケット取れるでしょう?」
「お前、経営者をなんだと思っているんだ」
言い合いながら二人でキッチンに向かう。
「あ、うまそ。昊が来てから生活の質が爆上がりだ」
鮭と蓮根の炒め物のなんてことのないメニューにも彼は喜んでくれる。
「でもあまり無理するなよ。体調が悪いときにはハウスキーパーを呼んでもいいから」
「うん。そうする」
素直に応えながら、そんなことをするつもりはなかった。世話をかけてばかりいる彼に返せるのは家事くらい。それに、家に帰ってからも細々と動いていた方が気が紛れるのだ。
「なぁ、食洗器買うか?」
食後の洗い物をしていれば、またしても大地が弟を甘やかす発言をぶちかました。
「平気だよ。たった二人分だし。兄さんは俺のやり方に文句を言ったりしないから」
「それはそうだろ? 俺は家事なんて一切しないんだから」
寧ろ誇らしげに言われて笑ってしまう。奥二重の半月目に小さな唇。白い肌に癖のない黒髪。そんな控えめな容姿の昊に対して、大地ははっきりとした二重に高い鼻梁、厚めの唇にセットしなくてキマる癖毛と、華やかな容姿なのだ。そこに経営者の自信と経験が加われば怖いものなしだ。見た目は似ていない兄弟だが、互いのことは両親以上に理解している。彼は経営の才能はあるが家事ができない。できないことはすっぱり切り捨てるタイプだから、昊が来るまで家事は全て外注だった。幸い、他人より昊の家事がいいと言ってくれるから、今は家事全般を引き受けている。昔から昊は家事が苦ではない。そんなところも正反対だ。
「辛いときは言うから大丈夫」
「そっか。まぁ、欲しくなったらいつでも言えよ。社長の俺がなんでも買ってやる」
「はいはい」
わざと偉ぶって言う彼に笑いながら、洗い物を終えてしまう。
彼は夜も自室で仕事をするから、昊も入浴を済ませて自室に引っ込むことにする。
『六月八日 今日も快調。仕事も順調。大地は相変わらずベタ甘』
リハビリの一つとして勧められた日記を書くのにも慣れてきた。アプリではなく紙に書くのがいいと言われて、ノートに書き始めたポジティブ日記。一日を振り返れば、朝計画していたお茶を買い忘れていることに気がつく。これはただの物忘れだ。後遺症ではない。お茶は明日買えばいい。小さな失敗はそんな風に払ってしまう。
『Kオリオンズは快勝。安井も三奪三振』
日記にはいいことしか書かない。それがルールだ。担当医に言われるまでもなくそうしていた。一日の終わりに反省点を書いてブラッシュアップに繋げるなんてことができる人間はマゾだ。日記なんて、現実より少し幸せなくらいがちょうどいい。
周りは優しい人間ばかりで、金銭面の不安もない。転職した仕事も順調。推しの野球選手も絶好調。夕食の鮭が上手に焼けて大地に褒められた。食洗器を買おうかと言ってもらえた。梅雨だというのに明日も晴れ。それと、あとは──。
そこまで考えてふと息を吐き出す。
あといくつポジティブを積み上げたら、別れを乗り越えられるのだろう。
「透輝 ……」
思わず零れて、いけないいけないと自身を叱咤する。
『安井投手を見習って明日も頑張ろう』
そう結んでノートを閉じる。これでいい。こんな日々を繰り返して平気になっていく。安井も困難を乗り越えた。推しが頑張っているのだ。自分も頑張らなくてどうする。そう気持ちを鼓舞してベッドに入る。
神は乗り越えられない試練を与えない。それはいつか誰かに貰った絵葉書に書いてあった言葉。だから自分も乗り越えられる。乗り越えることは忘れること。自分に言い聞かせて目を閉じる。けれど眠りに落ちる前の本能に近い部分が、せめて夢で会いたいと悪足掻きする。
透輝 ──。
夢か現実か分からないところで、また彼の姿を求めていた。
「ううん、いらない。テキストで充分だし、Kオリオンズが活躍したところだけ短い動画が配信されるから、それで充分」
半年前に脳腫瘍の手術をしてから、大きな画面でテレビを観るのが辛くなった。沢山の色や大きな音が入ると、眩暈がして気分が悪くなる。耐えられないほどではないから仕事なら耐える。だがそれなりにダメージを受けるから家ではやらない。幸いスマホの小さな画面は問題ないから、テキストとハイライト動画で楽しむことにしている。
「今日も勝ったよ。安井が出る日は勝つって決まっているから。流石八回の神」
「そういうのって普通九回のピッチャーに言うもんじゃないか? 守護神とかさ」
昊の安井好きを知っている彼が苦笑する。
「神は沢山いた方がいいでしょう? 八回にも神がいるのはKオリオンズだけなんだから」
「はいはい。今年は優勝するといいな」
「優勝したらCSに連れていってね。社長ならコネでチケット取れるでしょう?」
「お前、経営者をなんだと思っているんだ」
言い合いながら二人でキッチンに向かう。
「あ、うまそ。昊が来てから生活の質が爆上がりだ」
鮭と蓮根の炒め物のなんてことのないメニューにも彼は喜んでくれる。
「でもあまり無理するなよ。体調が悪いときにはハウスキーパーを呼んでもいいから」
「うん。そうする」
素直に応えながら、そんなことをするつもりはなかった。世話をかけてばかりいる彼に返せるのは家事くらい。それに、家に帰ってからも細々と動いていた方が気が紛れるのだ。
「なぁ、食洗器買うか?」
食後の洗い物をしていれば、またしても大地が弟を甘やかす発言をぶちかました。
「平気だよ。たった二人分だし。兄さんは俺のやり方に文句を言ったりしないから」
「それはそうだろ? 俺は家事なんて一切しないんだから」
寧ろ誇らしげに言われて笑ってしまう。奥二重の半月目に小さな唇。白い肌に癖のない黒髪。そんな控えめな容姿の昊に対して、大地ははっきりとした二重に高い鼻梁、厚めの唇にセットしなくてキマる癖毛と、華やかな容姿なのだ。そこに経営者の自信と経験が加われば怖いものなしだ。見た目は似ていない兄弟だが、互いのことは両親以上に理解している。彼は経営の才能はあるが家事ができない。できないことはすっぱり切り捨てるタイプだから、昊が来るまで家事は全て外注だった。幸い、他人より昊の家事がいいと言ってくれるから、今は家事全般を引き受けている。昔から昊は家事が苦ではない。そんなところも正反対だ。
「辛いときは言うから大丈夫」
「そっか。まぁ、欲しくなったらいつでも言えよ。社長の俺がなんでも買ってやる」
「はいはい」
わざと偉ぶって言う彼に笑いながら、洗い物を終えてしまう。
彼は夜も自室で仕事をするから、昊も入浴を済ませて自室に引っ込むことにする。
『六月八日 今日も快調。仕事も順調。大地は相変わらずベタ甘』
リハビリの一つとして勧められた日記を書くのにも慣れてきた。アプリではなく紙に書くのがいいと言われて、ノートに書き始めたポジティブ日記。一日を振り返れば、朝計画していたお茶を買い忘れていることに気がつく。これはただの物忘れだ。後遺症ではない。お茶は明日買えばいい。小さな失敗はそんな風に払ってしまう。
『Kオリオンズは快勝。安井も三奪三振』
日記にはいいことしか書かない。それがルールだ。担当医に言われるまでもなくそうしていた。一日の終わりに反省点を書いてブラッシュアップに繋げるなんてことができる人間はマゾだ。日記なんて、現実より少し幸せなくらいがちょうどいい。
周りは優しい人間ばかりで、金銭面の不安もない。転職した仕事も順調。推しの野球選手も絶好調。夕食の鮭が上手に焼けて大地に褒められた。食洗器を買おうかと言ってもらえた。梅雨だというのに明日も晴れ。それと、あとは──。
そこまで考えてふと息を吐き出す。
あといくつポジティブを積み上げたら、別れを乗り越えられるのだろう。
「
思わず零れて、いけないいけないと自身を叱咤する。
『安井投手を見習って明日も頑張ろう』
そう結んでノートを閉じる。これでいい。こんな日々を繰り返して平気になっていく。安井も困難を乗り越えた。推しが頑張っているのだ。自分も頑張らなくてどうする。そう気持ちを鼓舞してベッドに入る。
神は乗り越えられない試練を与えない。それはいつか誰かに貰った絵葉書に書いてあった言葉。だから自分も乗り越えられる。乗り越えることは忘れること。自分に言い聞かせて目を閉じる。けれど眠りに落ちる前の本能に近い部分が、せめて夢で会いたいと悪足掻きする。
夢か現実か分からないところで、また彼の姿を求めていた。