恋は乗り越えられない試練を与えない。
漸く彼が笑った。こちらに向けられた顔を見て気がつく。昊が思う以上に喜んでくれている。微かな表情の違いでも、彼の気持ちが伝わってくる。
「大袈裟じゃないです。課長を刺そうかと思ったんですから」
「命拾いって、課長の方かよ」
クッとまた彼が笑って、派遣スタッフが減らなかったことと同じくらい嬉しくなった。ああ、なりたいのは母親じゃなかったと自覚する。自分はこの男が好きなのだ。好きで、できれば独り占めしたい。その気持ちを秘めるか告げるかは要検討だが。
「いいタイミングだったな」
昊の気持ちを知る由もない彼が、ポケットから何かを取り出す。
「お祝い」
反射的に手を出して、手のひらの上に落とされたものに驚いた。
「安井さん!」
何故かそこに安井君人の丸型キーホルダーがある。
「前、具合が悪くなったときネットで探したって言っただろ。未使用品があったから買っておいた」
「まさか本当に買ってくれるとは」
持ち上げて、前からも後ろからも見てみる。確かに安井君人の正規品だ。
「ブルータス時代のやつで悪いけど」
「ううん、嬉しい。凄く」
Kオリオンズの個人グッズがなかったから、前のチームのグッズを探してくれたのだ。そこまでしてくれたことが泣きそうなほど嬉しい。
「大事にします」
「いや……」
キーホルダーを胸に抱いて宣言すれば、何故か顔を逸らされてしまった。
「内村さん?」
「別にいい。安物だし」
あ、照れているのかと気づいた。照れても赤くならないタイプ。そう、また一つ彼を知る。
「休憩室に行く? 今日いつもより空いていたから、多分二人くらい座れる。立ったままだと疲れるでしょ?」
三つの文章。懸命に話す様子が好きだなと思った。彼が好き。同僚としてではなく恋愛感情で。漸く腹を決めた気分だ。
「俺はこのままここにいたいかな。休憩室に行ったら、若い子が内村さんに見惚れてしまうから」
これくらいはいいかなと思った。どうとでも言い訳できる台詞。
「俺が若い子に見られたら嫌なの?」
「うん。ちょっと嫌」
素直に応えて、あとは雲のない水色の空を眺めていた。彼から言葉が返ることはないが、悪い冗談を言うなと言われなかったからいい。暑いけれど、今日は湿度が低くて過ごしやすい。
「そうだ、内村さん。今度の土曜うちに来ません?」
空を見たままさらりと言った。
「……原田さんの部屋?」
「そう。土曜日、珍しくKオリオンズ戦が地上波放送されるんです。一緒に観ましょう」
応えが返るまでに間があって、その間に怯えるように早口で説明する。
「あ、そういうこと」
「お昼を食べながらテレビを観ましょう。オムライスでよければ作りますし」
「作れるの?」
「普通の家庭レベルのやつなら」
昊の部屋に来ることよりそこに興味を持たれてしまった。どうやらこの恋は前途多難だ。
「二時から試合だから一時でどうです? 駅まで迎えに行きます」
「いや、暑いから迎えに来なくていい。住所を貰えればネットで調べていく」
ありがたい気遣いだ。自覚した途端に些細なことが嬉しくなるのだから、恋とは不思議なものだ。
「じゃあ、ご飯用意して待っていますね」
「ケーキとか買っていく?」
「ケーキ?」
「俺、友達の家に行ったことがないから」
昊の家が初めて。それは単純に嬉しかった。ついでに、部屋に行くような恋人がいないという意味だといいと思う。
「仕事のことで助けてもらったお礼ですから、内村さんは何も買ってこなくていいですよ」
「全部甘えるのは悪い」
「じゃあ、好きな飲み物だけ買ってきてください。お酒を飲むならお酒でもいいし。俺、激務になってから飲んでいなくて、家にお酒が一つもないんです」
白状すれば彼が眉を寄せる。可哀そうだと思ってくれたらしい。
「あまり強くないやつ買っていくから、一緒に飲もう」
「ぜひ。じゃあ、先に戻りますね」
土曜日の約束のお陰で午後も頑張れそうだ。扉に手を掛けて、そこで何故か腕を引かれる。
「内村さん?」
「あ、ごめん」
ぱっと離した手を所在なさげに広げて、彼が言葉を選んでいる。
「えっと、今日も残業に付き合うから。今日もオリオンズ戦あるし」
「いいんですか?」
昨日は食事に連れ出してくれて、今日も一緒にいられる。片思いの身にこれ以上ない幸せだ。
「今日は俺がお菓子買う」
「楽しみにしています」
「うん」
残業が楽しみなんておかしな話だ。だが楽しみなのだ。未だに一言の謝罪もない課長もさっさと帰ればいい。育児というのは嘘でどうせ遊びに行くのだろうが、こっちはこっちで楽しんでやる。今日は当欠がいないから定時までの最低限のノルマは終わる。それで充分。自分は優秀なのだ。その優秀さは残業時間に冴える。なんだかハイになって、今日はKオリオンズも勝つに違いないと、そう思った。
「大袈裟じゃないです。課長を刺そうかと思ったんですから」
「命拾いって、課長の方かよ」
クッとまた彼が笑って、派遣スタッフが減らなかったことと同じくらい嬉しくなった。ああ、なりたいのは母親じゃなかったと自覚する。自分はこの男が好きなのだ。好きで、できれば独り占めしたい。その気持ちを秘めるか告げるかは要検討だが。
「いいタイミングだったな」
昊の気持ちを知る由もない彼が、ポケットから何かを取り出す。
「お祝い」
反射的に手を出して、手のひらの上に落とされたものに驚いた。
「安井さん!」
何故かそこに安井君人の丸型キーホルダーがある。
「前、具合が悪くなったときネットで探したって言っただろ。未使用品があったから買っておいた」
「まさか本当に買ってくれるとは」
持ち上げて、前からも後ろからも見てみる。確かに安井君人の正規品だ。
「ブルータス時代のやつで悪いけど」
「ううん、嬉しい。凄く」
Kオリオンズの個人グッズがなかったから、前のチームのグッズを探してくれたのだ。そこまでしてくれたことが泣きそうなほど嬉しい。
「大事にします」
「いや……」
キーホルダーを胸に抱いて宣言すれば、何故か顔を逸らされてしまった。
「内村さん?」
「別にいい。安物だし」
あ、照れているのかと気づいた。照れても赤くならないタイプ。そう、また一つ彼を知る。
「休憩室に行く? 今日いつもより空いていたから、多分二人くらい座れる。立ったままだと疲れるでしょ?」
三つの文章。懸命に話す様子が好きだなと思った。彼が好き。同僚としてではなく恋愛感情で。漸く腹を決めた気分だ。
「俺はこのままここにいたいかな。休憩室に行ったら、若い子が内村さんに見惚れてしまうから」
これくらいはいいかなと思った。どうとでも言い訳できる台詞。
「俺が若い子に見られたら嫌なの?」
「うん。ちょっと嫌」
素直に応えて、あとは雲のない水色の空を眺めていた。彼から言葉が返ることはないが、悪い冗談を言うなと言われなかったからいい。暑いけれど、今日は湿度が低くて過ごしやすい。
「そうだ、内村さん。今度の土曜うちに来ません?」
空を見たままさらりと言った。
「……原田さんの部屋?」
「そう。土曜日、珍しくKオリオンズ戦が地上波放送されるんです。一緒に観ましょう」
応えが返るまでに間があって、その間に怯えるように早口で説明する。
「あ、そういうこと」
「お昼を食べながらテレビを観ましょう。オムライスでよければ作りますし」
「作れるの?」
「普通の家庭レベルのやつなら」
昊の部屋に来ることよりそこに興味を持たれてしまった。どうやらこの恋は前途多難だ。
「二時から試合だから一時でどうです? 駅まで迎えに行きます」
「いや、暑いから迎えに来なくていい。住所を貰えればネットで調べていく」
ありがたい気遣いだ。自覚した途端に些細なことが嬉しくなるのだから、恋とは不思議なものだ。
「じゃあ、ご飯用意して待っていますね」
「ケーキとか買っていく?」
「ケーキ?」
「俺、友達の家に行ったことがないから」
昊の家が初めて。それは単純に嬉しかった。ついでに、部屋に行くような恋人がいないという意味だといいと思う。
「仕事のことで助けてもらったお礼ですから、内村さんは何も買ってこなくていいですよ」
「全部甘えるのは悪い」
「じゃあ、好きな飲み物だけ買ってきてください。お酒を飲むならお酒でもいいし。俺、激務になってから飲んでいなくて、家にお酒が一つもないんです」
白状すれば彼が眉を寄せる。可哀そうだと思ってくれたらしい。
「あまり強くないやつ買っていくから、一緒に飲もう」
「ぜひ。じゃあ、先に戻りますね」
土曜日の約束のお陰で午後も頑張れそうだ。扉に手を掛けて、そこで何故か腕を引かれる。
「内村さん?」
「あ、ごめん」
ぱっと離した手を所在なさげに広げて、彼が言葉を選んでいる。
「えっと、今日も残業に付き合うから。今日もオリオンズ戦あるし」
「いいんですか?」
昨日は食事に連れ出してくれて、今日も一緒にいられる。片思いの身にこれ以上ない幸せだ。
「今日は俺がお菓子買う」
「楽しみにしています」
「うん」
残業が楽しみなんておかしな話だ。だが楽しみなのだ。未だに一言の謝罪もない課長もさっさと帰ればいい。育児というのは嘘でどうせ遊びに行くのだろうが、こっちはこっちで楽しんでやる。今日は当欠がいないから定時までの最低限のノルマは終わる。それで充分。自分は優秀なのだ。その優秀さは残業時間に冴える。なんだかハイになって、今日はKオリオンズも勝つに違いないと、そう思った。