恋は乗り越えられない試練を与えない。

 小声で言われて驚いた。
「え、だって三種混合とか」
「どこかで聞いたことがあったから。自信満々で言うと結構通用する」
 思った以上に侮れない男だ。だが味方としてこれ以上に心強いタイプはいない。
「さ、始業までにもう少し進めよう。次、部長が現れたらまた応戦してあげるから」
「ありがとうございます」
「お礼ならこいつに言ってやって。一緒に外回りに出ても、顧客事務課は酷い、あの部長と課長をどうにかしてやりたいって、ずっと言っていたんだから」
 バラされたくなかったのか、内村が眉を寄せる。そんな顔をしても少しも怖くなかった。どんな顔をしても綺麗だから。いや、そうではなく、彼の気持ちがどうしようもなく嬉しいから。
「二人とも、今度お礼をさせてください」
 そんな言葉で溢れそうな想いを封じ込めて、始業前の作業に集中した。流石に全部は終わらなかったが、絶望から這い上がるくらいには仕事が減る。
「じゃ、営業部に戻るわ。あまり理不尽なことを言われたらこっちにおいで」
 ありがたい言葉を残して去っていく富澤に、もう一度頭を下げた。
「内村さん、ありがとう」
「役に立った?」
「当たり前です!」
 必死になってしまえば彼が瞬く。そのあとで眉が上がる。
「よかった」
 満足げに営業部に戻っていく背中を眺めながら、どうやら退職しなくて済みそうだと思った。彼に恩返しせずに辞める訳にはいかない。
「遅くなりました。今日の作業を始めます」
 部長と課長を無視して、テキパキと今日の分の書類をスタッフに分けていった。あと一時間で昨日の分が終わるから、昊も十時から今日の分に掛かれる。残業も三時間で済みそうだ。Kオリオンズのナイトゲームの日だから、テキスト速報を見ながら作業をしよう。そう気持ちが楽になる。
 朝、作業台に近づくことすらしなかった部長に呼ばれたのは昼前だった。
「ここじゃマズいから面談室に」
 言われて、勝手なことをするなと責められるかと思った。だが告げられたのは別のことだ。
「派遣をなくす話は白紙にする」
 テーブルの向かいに座った瞬間言われた。
「今いる一人は来年も残す方向でいくから、今後もよろしく」
 それだけだと言って、昊の返事も聞かずに個室を出ていく。部長の立場で昨日の仕事を終えられなかったことや、課長の勝手を止められないことを詫びてほしかったが、とりあえず最悪の事態は回避できた。これ以上人数は減らない。そのことに心の底から安堵する。過労死や出刃包丁の危機から遠ざかった。
 デスクに戻って昼前の仕事を片付けながら、そっと内村を観察した。ラインでも報告できるが、できれば直接話したい。彼が食事に出る時間を見ておけば、一時間の休憩から戻る頃、執務室の前で待っていればいい。そう思ったが、そこで電話が入って見逃してしまう。
「そう上手くはいかないか」
 今日はここまで上手くいきすぎだったから、きっぱり諦めて、少しだけ休憩時間を削って仕事をした。よくあることだから慣れたものだ。休憩に入る時間が遅れると、食堂も休憩室も一杯で座れなくなる。それを知っているから、悪足掻きせず外階段の踊り場に向かう。鞄の中にパンと紅茶が入っている。昼はそれで充分だ。日が照っている日は日焼けを気にする社員が外に出ないから、踊り場を占領できる。いい天気で気持ちがいい。そんな細やかな幸せを感じながら、ピカピカのステンレスの手すりに寄りかかる。だがそこで昊の隠れ場所に誰かやってきた。内側から扉が開くのに気づいて、なんとなく食べかけのパンを鞄に隠す。
「あ、いた」
「内村さん」
 現れたのは彼だった。
「こんなところで何を食べるの?」
「……コンビニで買っておいたパンとか」
 問われれば嘘を吐く訳にもいかなくて、鞄からパンを出して見せた。途端に彼が眉を寄せる。
「パン一つでよく身体が持つな。残業までするのに」
「朝しっかり食べるし、午後は紅茶を飲むから」
 これ、お気に入りの紅茶のペットボトルバージョンと披露してみせても、彼の表情は変わらない。
「だから細いんだ」
「細い、かな?」
「心配になる」
 流れで彼の身体を眺めれば、すらりとした身体に程よく筋肉がついているのが分かった。バランスがいい。お子様メニューが好きで、最近まで職場のすぐ前まで地下鉄を使っていたというのに、片道十五分歩き続けた昊よりいい身体をしているのは理不尽だ。だが美しい人間は、そんな風に神様が作ってしまったのだから仕方がない。それとも、実は地道にジムに通っていたりするのだろうか。昊が上から下まで眺めるのを気にする様子もなく、彼はステンレスの手すりに腕を預けて空を眺める。
 彼の傍でパンを齧るのは気恥ずかしいが、食べなければ昼の仕事ができないから開き直って食べてしまった。紅茶を飲み終えたタイミングで、ハッと思い出して彼に顔を向ける。
「そうだ。派遣さん、減らないことになったんです」
「うん。富澤さんがどこからか情報を仕入れて、聞いた」
「そっか」
 彼は一体何者なのだろう。だが今そこはいい。
「内村さんと富澤さんのお陰です。命拾いしました」
「大袈裟」
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