恋は乗り越えられない試練を与えない。

 顔を上げて言われて、自分の頬が染まるのが分かった。内村の隣で富澤が笑いを噛み殺している。彼なら昊と内村の関係に名前をつけることができるだろうか。もっと話していたい気持ちを抑えて、目の前の書類を処理していく。せっかく助っ人が来てくれたのだ。一分一秒無駄にしたくない。
 作業はスムーズに進んだ。富澤は自己申告以上に仕事ができて、ブランクを感じさせないほどサクサクと仕事を進めていく。先にざっと見て、一目見ただけで不備だと分かる書類や、破れのあるものに付箋を立ててくれる内村のフォローもありがたい。そうして集中するうちに課長が出勤してきた。
「何を勝手なことをしているんだ」
 おはようでも昨日は書類を終えられなくてすまなかったでもなく、第一声、彼はそう言った。
「おはようございます、課長」
 礼儀として挨拶だけはして、昊は手元の書類から顔を上げない。それくらいの無礼は許されていいと思った。だって昨日内村が部長のデスクに残していった書類の三分の一も終わっていない。顔を上げたら逆に「昨日は随分と活躍してくださって」と皮肉を言ってしまいそうだ。
「なんだ、その態度は。他部署の人間に手伝わせてはいけないと言ったのを忘れたのか?」
「他部署の人間にやらせたくないなら、その分働けばいいじゃないですか」
 昊の代わりに言い返してくれたのは内村だ。
「お前、昨日は原田を連れ帰ったせいで大変だったんだ」
「その大変なことを原田さんは毎日やっているんですけどね」
 不満の態度を表すためなのか、スマホを眺めながら言い返す内村に、流石に止めなければマズいと思う。言い返してくれるのはありがたいが、このままでは内村が処分されてしまう。
「いいか、俺は育児があるんだ。結婚もしていないお前らに何が分かる。俺は仕事もして子どもも作って国に貢献しているんだ。楽している奴らがその分働くのは当然だろ?」
 ああ、二七で非婚子なしを責められるのかと、どこか他人事のように聞いた。手元の作業が忙しくてよかった。そのお陰で怒りの気持ちを散らすことができる。
「昨日は遅くまで残業したんだ。もう当分残業はしないからな」
「三山課長」
 なんだその啖呵はという昊の突っ込みの代わりに、声を上げたのは富澤だった。
「これどうぞ」
 マニュアルを丸ごと彼に差し出してしまう。
「なんだ」
「顧客事務課の作業マニュアルです。俺はモニターで充分だったんですけど、あなたにお渡しするためにプリントアウトしておきました」
「だからなんだ」
 苛立つ課長に富澤が目的のページを開いてみせる。
「ルール、注意事項のページです。他部署の人間が手伝ってはいけないなんて、どこにも書いていないんですよ。それあげますから熟読しておいてください」
 そう言って椅子に戻って作業を再開する。
「なんの権限があって他部署のお前が……」
 しつこく絡む課長に内村がスマホを向ける。
『いいか、俺は育児があるんだ。結婚もしていないお前らに何が分かる。俺は仕事もして子どもも作って国に貢献しているんだ。楽している奴らがその分働くのは当然だろ?』
 さっきの彼の台詞がリピートされて驚いた。突然スマホを弄り出したのはそういうことだったらしい。
「人事に録音を持っていかれてもいいんですか? パワハラですよ」
 内村の代わりに富澤が纏めてくれる。
「それくらいでパワハラになる訳ないだろ?」
「では参考として人事に提出しても構いませんね」
「……必要ないだろ」
 流石にマズいと分かっている彼が慌て出した。
「とにかく、原田さんはあなたたちができなかった仕事の残りを片付けようとしているんですから、邪魔しないであげてください」
「あとで時間を作る。そこで話そう」
 策を練って言い返しにくるつもりらしい彼に言われて、ため息が零れた。そんな時間が惜しいというのに分からないのか。まぁ、それくらいは付き合ってやろう。諦めの境地でいた昊を、富澤がまた護ってくれる。
「そうだ、三山さん」
 作業台から課長のデスクに戻っていく背に声を向ける。
「三種混合って知っています?」
「オリンピック競技だろ?」
 違うだろと、笑いを堪えた。
「下のお子さんもうすぐ一歳でしたっけ? 蜂蜜は好きですか?」
「……ああ、好物だ。って、それがなんだ」
「いいえ」
 富澤の満面の笑みに訝しげに眉を寄せて、彼は去っていった。
「育児をしているっていうのは嘘みたいだな」
「ですね」
 非婚子なしと馬鹿にされた昊でさえ、小さな子どもに蜂蜜を与えてはいけないことくらい知っている。三種混合。そんなオリンピック競技はない。
「富澤さんのお子さんはおいくつなんですか?」
 手を止めて聞けば彼が吹き出した。隣の内村まで口元に拳を当てて笑っている。
「俺に子どもなんていない。奥さんに出ていかれたバツイチだから。それらしいことを言って鎌をかけてみただけ」
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