恋は乗り越えられない試練を与えない。

 翌日の地獄は覚悟していた。部長課長で前日の書類が終わったとは考えられないから、今日の残業は日付を越えるか。そう思っていたのに、出勤すれば意外な展開が待っていた。
「原田さん、おはよう。この人、営業部の富澤とみざわさん」
 いつもより一時間早く出社したのに、内村も既に執務室にいた。おまけにもう一人いた男性を紹介されて瞬く。
「富澤です」
「えっと、原田です」
 軽く頭を下げられて反射的に昊も返す。近くの部署の人間だから顔を見たことはあるし、富澤という名前くらいは知っていた。だが何故彼が内村といるのだろう。まさか、俺の恋人とかいうオチか。昨夜の思考の続きで考えてしまう。
「一応、営業課の課長代理なんだ」
「おい、さっきから、この人だの一応だの失礼だぞ。俺はれっきとした課長代理だ。仕事もそんじょそこらの課長よりできる」
 コミュ障の内村とも普通に会話している。やはり特別な関係なのだろうか。ツキリと胸が痛むが、続いた言葉は全くの予想外だ。
「富澤さん、昔、顧客事務課にいたんだって」
「え?」
 部課に関わらず使える作業台には、既に顧客事務課で処理する書類が置いてある。日付を見るに昨日の分だ。やはり部課長では終えられなくて大量に残していったのだろう。
「だから原田さんの仕事を手伝ってもらいたいってお願いした」
 意外な言葉に驚かされた。昨日、明日の仕事もなんとかすると言ってくれたのは、昊の気を楽にするための優しい嘘だと思っていた。それで充分だと思っていたに、彼は本当に考えてくれていた。
「チェックの基本は変わっていないと思うから、注意事項だけ教えてもらえれば充分手伝える」
 そう言って作業台の椅子に座る彼の手には、既に最新版の作業マニュアル。
「営業部の前はデジ推にいたんだ」
 他の部署の人間にヘルプを頼むのはご法度。そんな昊の言葉を先回りして彼が言った。デジタル推進室。各種マニュアルの電子化や、顧客の書類を電子保存するルールを作る部署だ。この会社はまだ全てが電子化されておらず、改定を繰り返しながら少しずつ効率化を進めている。
「ここ数日顧客事務課のマニュアルを読み直していたんだけど、そっちの課長の言う、他部署の人間に作業させてはいけないっていうルールは明確に記載されていないんだよね」
 漸く彼の言いたいことを理解する。
「だから俺が手伝っても大丈夫。課長に何か言われたら、このマニュアルを見せて反論するから、だから遠慮なく頼って」
 思いも寄らない幸運だった。最強の助っ人だ。そんな人間を引っ張ってきてくれた内村に感謝しかない。
「ってことで始業まで一時間弱だけど、できるだけやっちゃおう」
「ありがとうございます。助かります」
 九十度どころではなく頭を下げれば富澤に苦笑される。
「毎日毎日、あれじゃ苛めだよなって、営業部でも原田さんに同情する声が上がっていたんだ。何とかしてやりたいって思っていたところに、こいつから助けを求められたから」
「……そこはいいじゃないですか」
「またまた照れちゃって。力を貸してほしいって、初めて俺のスマホに連絡してきたくせに。五年も同じ部署にいて初めて頼られて、涙が出るんじゃないかって思ったよ」
「何かあったら頼れよと何百回も言われたから、一度くらい頼らないと拗ねるって思っただけです。新人時代に勝手にスマホを奪って連絡先を登録していくし」
「お前が他の奴らと仲よくなれそうに見えなかったから、俺が世話を焼いてやらないといけないって思ったんだよ。仕事はそこそこできちゃうから、今まで出番がなくてな」
 長文を話す内村が珍しかった。だが話の内容を聞いて理解する。富澤という男は相手の心に入り込むのが上手いのだ。不要なことは話さない内村にも根気よく向き合い続けた。だから困ったときに声を掛けてもらえる存在になった。課長代理だというが、彼のような人物こそ課長に上がってほしい。
「俺は書類の数を数えたりファイルに入れたりの補助をするから。他もできることがあったら言って」
 富澤の言葉を躱して作業台に着いた内村が、作業しやすいように書類を分けてくれる。
「ありがとう。凄く嬉しい」
 彼の向かいに座って言えば目を逸らされる。
「今日は残業で日付を越えることも覚悟していたから」
 何かおかしなことを言っただろうか。不安を払うように続ければ、ぽつりと彼の言葉が返ってくる。
「そんなことはさせない」
「内村さん?」
「原田さんはあの部長と課長の奴隷じゃない。だからまた俺と食事に行く」
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