恋は乗り越えられない試練を与えない。
彼ならさぞ多くの恋人がいただろうと思っていたのに違うのだろうか。ああ、そうか。これまでの恋人はみな内村に支払いなどさせなかったのか。そっちの可能性が高いが、ストレートに聞く話でもない。彼が駅に向かって歩き出してしまうから、胸に抱えたまま隣を歩く。
恋人? 普通にいるけど。内村にそう言われたらちょっと傷つくだろうなと思った。そういえば後輩社員から庇ったときゲイだと言っていた。告白を断るための嘘だったかもしれないが、もし事実だとしたらどうだろう。昊は男の人が好きだ。社会人になってから付き合った二人は男性だった。多忙のせいでここ一、二年は恋愛から遠ざかっているが、内村とそうなる可能性はあるだろうか。初めてそんなことを思って、密かに頬に血が上る。
まだ好きになった訳ではない。そう思って、まだってなんだと自身に突っ込む。自分で自分に暗示をかけるみたいに、一度に深みに嵌ってしまった。可能性を考えた途端にあわあわしている。だってこんな風に話すようになる前から、綺麗だ綺麗だと思って眺めてきたのだ。
「疲れた?」
無言の昊を訝ったのか、彼に聞かれてしまった。
「ううん。いいお店だったなと思って」
「Kオリオンズの試合のときまた来よう」
昊の不審な気持ちに気づいた様子はなくて安堵した。自分でもまだよく分からない気持ちだが、決して彼にバレてはいけないというのは確かだから。
「夜はいくつも試合が重なるでしょう? Kオリオンズの試合を流してくれるとは限らないんじゃないですか?」
「マスターの気分次第なんだ。運よく好きなチームの試合が流れていたら嬉しいし、そうでなくても楽しい。今日は当たりなんじゃないかって、また来たくなるのがあの店の中毒性」
「なるほど」
贔屓のチームの試合がない日なら可能性ゼロだが、そうでなければわくわくしながら来店できるという訳だ。他のチームの試合が流れていても、それはそれで楽しめる。
「今日は内村さんがいつも使う地下鉄で駅まで行ってみます?」
前は昊に会わせてもらったから、今日は彼に合わせるつもりで聞いた。
「いや、俺も最近原田さんと同じように歩いているんだ」
「え、そうなんですか?」
地下鉄を使えばすぐなのに、わざわざ十五分も地下通路を歩いて出勤するのは物好きだと言われてきたから意外だった。
「歩くのもいいなって。地下道なら信号待ちもないし。地上ほどごみごみしていなくて結構好き」
「そっか」
結構好き。その言葉にドキリとした。昊に向けた言葉ではないと分かっているのに錯覚してしまう。もしそんなことが起こったら自分はなんと応えるだろう。現実離れした綺麗さを持つ彼だから、妄想も現実離れだ。この辺りでしっかり自分を律しておかないと大変なことになりそうだ。ん? 律する? 何故既に彼に恋した設定になっているのだろう。密かな思考は忙しい。
「また原田さんの駅まで一緒に行く」
仄暗い地下道を地上駅まで歩いて、タイミングよくやってきた電車に乗り込んだところで彼が言った。
「今日は体調も悪くないし、ついてきてもらわなくて大丈夫ですよ?」
「いや、見張り」
「見張り?」
問えば微かに彼の口角が上がる。
「見張っていないと会社に戻って仕事しそうだから」
「流石に今日は戻りませんよ」
「分からない。やっぱり明日が不安だとか言って会社に戻るかもしれない」
「バレたか」
「……本気で戻るつもりだったのか」
「冗談ですよ」
言い合って笑ううちに彼の駅を通過していて、また昊の最寄りまで来てもらうことになる。
「今日はありがとう。ご飯もおいしかったし、凄く楽しかった」
「また残業を放棄して行こう。俺が引っ張っていくから」
「楽しみにしています」
「ちゃんと帰って。職場に戻るなよ」
「分かっていますよ」
そこにやってきた電車に乗って、彼は短く手を振って帰っていく。
もう、彼がくれた幸せを消し去るつもりはなかった。この温かな気持ちのままベッドに入って眠ろう。その前に久しぶりにのんびり入浴もいい。保存してある安井投手の活躍シーンの動画でも観ようか。まだ九時を過ぎたばかりの腕時計を不思議な気持ちで眺める。内村と楽しい時間を過ごした筈なのに、まだ今日があと三時間もある。残業がなければこんなに自分の時間があるのだと、当たり前のことを思い出す。彼のお陰だ。
「原田さんと同じように歩いている、か」
ホームを歩きながら、考えるのは彼のことばかりだ。コミュ障だ、変人だと言われる彼に救われた。同期だったのに、周りの評価と美しすぎる容姿に惑わされて、彼に関わろうとしなかった時間がもったいない。彼は他人を拒絶などしていない。
また残業を放棄して行こう。その言葉を支えにまた頑張っていける。母親役のつもりが彼に救われて、同時にどうやら自分が望んでいるのは別の関係らしいと、うっすら自覚した夜になった。
恋人? 普通にいるけど。内村にそう言われたらちょっと傷つくだろうなと思った。そういえば後輩社員から庇ったときゲイだと言っていた。告白を断るための嘘だったかもしれないが、もし事実だとしたらどうだろう。昊は男の人が好きだ。社会人になってから付き合った二人は男性だった。多忙のせいでここ一、二年は恋愛から遠ざかっているが、内村とそうなる可能性はあるだろうか。初めてそんなことを思って、密かに頬に血が上る。
まだ好きになった訳ではない。そう思って、まだってなんだと自身に突っ込む。自分で自分に暗示をかけるみたいに、一度に深みに嵌ってしまった。可能性を考えた途端にあわあわしている。だってこんな風に話すようになる前から、綺麗だ綺麗だと思って眺めてきたのだ。
「疲れた?」
無言の昊を訝ったのか、彼に聞かれてしまった。
「ううん。いいお店だったなと思って」
「Kオリオンズの試合のときまた来よう」
昊の不審な気持ちに気づいた様子はなくて安堵した。自分でもまだよく分からない気持ちだが、決して彼にバレてはいけないというのは確かだから。
「夜はいくつも試合が重なるでしょう? Kオリオンズの試合を流してくれるとは限らないんじゃないですか?」
「マスターの気分次第なんだ。運よく好きなチームの試合が流れていたら嬉しいし、そうでなくても楽しい。今日は当たりなんじゃないかって、また来たくなるのがあの店の中毒性」
「なるほど」
贔屓のチームの試合がない日なら可能性ゼロだが、そうでなければわくわくしながら来店できるという訳だ。他のチームの試合が流れていても、それはそれで楽しめる。
「今日は内村さんがいつも使う地下鉄で駅まで行ってみます?」
前は昊に会わせてもらったから、今日は彼に合わせるつもりで聞いた。
「いや、俺も最近原田さんと同じように歩いているんだ」
「え、そうなんですか?」
地下鉄を使えばすぐなのに、わざわざ十五分も地下通路を歩いて出勤するのは物好きだと言われてきたから意外だった。
「歩くのもいいなって。地下道なら信号待ちもないし。地上ほどごみごみしていなくて結構好き」
「そっか」
結構好き。その言葉にドキリとした。昊に向けた言葉ではないと分かっているのに錯覚してしまう。もしそんなことが起こったら自分はなんと応えるだろう。現実離れした綺麗さを持つ彼だから、妄想も現実離れだ。この辺りでしっかり自分を律しておかないと大変なことになりそうだ。ん? 律する? 何故既に彼に恋した設定になっているのだろう。密かな思考は忙しい。
「また原田さんの駅まで一緒に行く」
仄暗い地下道を地上駅まで歩いて、タイミングよくやってきた電車に乗り込んだところで彼が言った。
「今日は体調も悪くないし、ついてきてもらわなくて大丈夫ですよ?」
「いや、見張り」
「見張り?」
問えば微かに彼の口角が上がる。
「見張っていないと会社に戻って仕事しそうだから」
「流石に今日は戻りませんよ」
「分からない。やっぱり明日が不安だとか言って会社に戻るかもしれない」
「バレたか」
「……本気で戻るつもりだったのか」
「冗談ですよ」
言い合って笑ううちに彼の駅を通過していて、また昊の最寄りまで来てもらうことになる。
「今日はありがとう。ご飯もおいしかったし、凄く楽しかった」
「また残業を放棄して行こう。俺が引っ張っていくから」
「楽しみにしています」
「ちゃんと帰って。職場に戻るなよ」
「分かっていますよ」
そこにやってきた電車に乗って、彼は短く手を振って帰っていく。
もう、彼がくれた幸せを消し去るつもりはなかった。この温かな気持ちのままベッドに入って眠ろう。その前に久しぶりにのんびり入浴もいい。保存してある安井投手の活躍シーンの動画でも観ようか。まだ九時を過ぎたばかりの腕時計を不思議な気持ちで眺める。内村と楽しい時間を過ごした筈なのに、まだ今日があと三時間もある。残業がなければこんなに自分の時間があるのだと、当たり前のことを思い出す。彼のお陰だ。
「原田さんと同じように歩いている、か」
ホームを歩きながら、考えるのは彼のことばかりだ。コミュ障だ、変人だと言われる彼に救われた。同期だったのに、周りの評価と美しすぎる容姿に惑わされて、彼に関わろうとしなかった時間がもったいない。彼は他人を拒絶などしていない。
また残業を放棄して行こう。その言葉を支えにまた頑張っていける。母親役のつもりが彼に救われて、同時にどうやら自分が望んでいるのは別の関係らしいと、うっすら自覚した夜になった。