恋は乗り越えられない試練を与えない。

 そんな実況が流れれば、店内全員がぴたりと動きを止めて聞き入った。
『ブルータス、投手が代わった途端に一発を放たれました。一対八。更に点差が広がります』
 Cブルータス。安井投手が去年までいたチームだ。どうやら今日はボロ負けらしい。直後にもう一本ヒットを打たれて一対九になる。
「ざまあみろ、ブルータス。安井さんを手放すからこうなるんだ」
 内村に顔を寄せて、小声でわざと酷いことを言ってみる。
「だな。八点差だから、今日はもう負けるだろ」
 まだ三回の裏だが、彼の言葉がありがたかった。平日のナイトゲームの三回。こんな時間に自由なんていつぶりだろう。残りの仕事が気にならないと言えば嘘になるが、それでも連れ出してくれた彼には感謝だ。今は開き直って彼の厚意に甘えてしまおう。
「内村さん、料理のシェアは大丈夫な人? これ、手をつけてない方、半分食べます?」
 スプーンとフォークの使い方も綺麗だが、割と食べるスピードが速い彼の皿はもう大半空いている。サンドウィッチが思った以上のボリュームだったから、二つ目に手をつける前に聞いてみる。
「原田さんがいいなら」
「じゃあ、お皿借りますね」
 カトラリーバスケットに入っていた予備のフォークでサンドウィッチを分けてやる。
「どうぞ。これ、すごくおいしい。って、ローテーションだから内村さんはとっくに知っているでしょうけど」
「いや、嬉しい。今日、どっちにするか迷ったから」
「そっか」
 本心か気遣いか分からなかったが、どちらでも胸に温かいものが湧いた。彼の傍はとても心地いい。けれどサンドウィッチに掛かろうとした彼が、そこでふと動きを止める。
「……ごめん。俺、何も返せるものがない。気づかないで食べていた」
 またしょんぼり犬が顔を出すから、ふっと笑って大丈夫だと言ってやる。
「いいんです。俺が多く食べられないだけだから。多分内村さんの方が普通。身体の大きさも違うし。背、俺より十センチ以上あるでしょう?」
「一七八」
「うわ、十四センチ差。羨ましい」
 羨ましいが、悔しいという気持ちはなかった。元々神様に綺麗に作られたような彼は比較対象ではない。逆に見ていて幸せな気持ちになる。いくらでも美しくいてくれればいいと思う。
「沢山食べて大きくなってくれれば嬉しいですよ」
 ふざけて言ってみれば彼も笑う。
「母親みたい」
「え? ウザい?」
「いや」
 口元に拳を寄せた彼が、思いに浸るようにふっと笑う。
「……そういうの、いいなと思っていたから」
「あ、そうなんだ」
 そこは詳しく聞いていいかどうか迷った。母親の愛情に飢えた子ども時代だったのかもしれない。気になるが、嫌な過去なら思い出させるのもよくない。
『打った! 今日三本目のホームラン!』
 そこでまたラジオの中の実況が声を上げた。
『一対十! 苦しくなったCブルータス!』
 今日はブルータスの厄日らしい。六回で敗北決定のように打たれ込む。投手は早くも三人目。奥の客二人は相手チームのファンらしく、点が入って満足げな顔をしている。こんな風に堂々と野球を応援していい空間も、このご時世珍しいかもしれない。
「ベスハラにならない、いいお店」
「気に入った?」
「はい。また来たいです」
「うん。また原田さんと来る」
 また来ようではなく、また来るというのに不器用さが表れていて、なんだか嬉しかった。彼は建前で行動したりしない。本音で昊との時間を気に入ってくれている。心地いいと思った気持ちが一方通行でないようで嬉しい。
『十二対一! Cブルータス大敗!』
 大興奮の実況が告げたとき、奥の男性二人と同じように手を叩いてしまった。別にCブルータスを目の敵にしている訳ではないが、今日一日は相手チームのファンだ。そんな夜があってもいい。
 ラジオを聞き終わるまでいるつもりだったらしい男性客二人が、順に会計に立った。昊たちも後に続く。個人経営の店らしく少しだけ高めの料金を、内村がカードで払ってくれる。
「すみません。結構な金額をご馳走になって」
 店を出たところで言えば、彼が真顔で昊を見つめる。
「いい。こういうの、やってみたかった」
「そうなんですか?」
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