恋は乗り越えられない試練を与えない。

 凹凸のない平坦な言い方だった。けれどどんな台詞より胸に響く。他部署の人間に解決できる訳がない。分かっているのに、今は彼の言葉に浸っていたい。彼が昊のために動いてくれたことが、どうしようもなく嬉しい。
「ありがとう、助けてくれて」
 明日が地獄でもいいじゃないかと思った。
「いや、俺が苛ついただけ。あいつ、自分の手柄のことしか考えていないから」
 彼は意外なほど事務部の事情を知っていた。課長が何故躍起になって人員を減らそうとするのか。それは少ない人数で仕事を熟した方が、能力の高い部署とみなされて役席が評価されるからだ。
「ほんとそう」
 自分は最低限の仕事しかしないくせによく言えるものだ。やはり昊が過労死でもしない限り、彼が考えを改めることはないのだろう。彼のために過労死など冗談じゃないが。
「隣の部署から見ている俺さえ腹が立つ。早くいなくなってくれないかな」
「一年前に来たばかりですからね」
「じゃあ、追い出すしかないな」
「さっきの微笑みを使って追い出して」
「あれは半年に一度くらいしか使えない」
「何それ」
 軽口に救われた。そこでふと気づけば、彼が駅に向かうのとは逆方向に歩いている。
「帰るんじゃないんですか?」
 身長差があるから見上げて聞けば、その顔が悪戯っぽく笑った。実際は眉と口角が僅かに上がっただけだが、何か楽しいことを企んでいると分かってしまう。
「この間のお礼。一緒にご飯食べよう。残業するつもりだったなら時間あるでしょ?」
 意外に強引な誘いだった。もちろん嫌ではなくて、彼がどんな店に連れていってくれるかわくわくする。
 地下鉄の駅一駅分くらい歩いて、辿り着いたのはコンクリート二階建ての建物だった。二階は多分賃貸の部屋が二つ。ベランダの観葉植物や物干し竿が生活感を感じさせる。その一階は小さな窓からオレンジの灯りが漏れているだけで、ぱっと見なんの店か分からない。
「こっち」
 促されて逆側に回ってみれば、コンクリートの壁の端で紺色の扉が迎えてくれる。
「騒がしい人間には入ってほしくないみたいで、入口も分からないようにしているんだ。一応ご飯も出せるカフェ」
「カフェ?」
 そうか、カフェなら彼好みのメニューがあるのかと納得したが、彼の目的はそこではない。
「……!」
 入った途端、結構な音量で流れるラジオに驚かされた。
「野球!」
「そう。ここはシーズン中はいつも野球を流している」
 彼は常連らしく、慣れた様子で空いている席に向かった。仄暗い空間の奥のテーブル席。促されて座ったところで初老のマスターがおしぼりとメニューを持ってくる。タイムスリップしたみたいにレトロな空間。
「お勧めは?」
 オムレツとパスタとサンドウィッチ。なんだかほっとするメニューを眺めて聞けば、彼はちらりとだけ見たメニューを置いた。
「どれもおいしい。俺はローテーション。今日はオムレツとコーラフロート」
「じゃあ、俺はサンドウィッチとアイスティー」
 マスターが傍にいるうちに注文を済ませてしまって、ラジオに耳を傾ける。店内には他に二人、中年の男性が寛いでいた。一人はスポーツ新聞を綺麗に折り畳んで読んでいる。熱心な野球ファンなのかもしれない。
「今日、Kオリオンズ戦なかったな」
 ラジオの中の対戦チームに気づいたらしい彼がぽつりという。無表情のままだがしょげた犬のように見えて、ああ、昊にオリオンズ戦を聞かせたかったのかと気がつく。
「他のチームの試合も聞いていて面白いですよ。テキスト観戦もいいけど、ラジオはまた臨場感があるから」
「そう」
 短い言葉に安堵が表れていた。関わってみれば彼はとても分かりやすい。試合を聞きながら待っていれば、程なく料理が運ばれてくる。
「わ、おいしそう」
 サンドウィッチは野菜とベーコンがいい具合に焼けたパンに挟まれているし、内村のオムレツも綺麗な黄色がふんわり半月型を作っている。一緒に運ばれてきたコーラフロートも自由の象徴みたいで微笑ましい。ジュースを飲みながら食事するなんて咎められることかもしれないが、昊の前では自由に過ごしてくれればいい。他の部分で充分、彼がまともな人間なことは知っている。
「おいしい」
「だな」
 付け合わせのパンを千切りながら彼が満足げに言う。
「会社から歩いて行ける場所にこんな店があるなんて知らなかった」
「駅から遠いし、ネット広告も出していないから。でも赤字が出ないくらいには売り上げている」
 マスターとは何度か話をしたことがあるようだ。他人に興味がない男かと思ってたが、そうでもない。また一つ彼を知る。
『ホームラン! スリーランホームラン!』
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