恋は乗り越えられない試練を与えない。
母親のような存在になりたい。その気持ちが間違いだったと気づくのに、それほど時間はかからなかった。
九月に入ってもまだまだ暑さが続く毎日。お盆はとうに過ぎたというのに、みななんだかんだ理由をつけて欠勤と早退を繰り返す。いやいや、刺がありすぎる。みなそれぞれ事情があるのだ。分かっているが、そのうち昊の身体を内側から破壊するんじゃないかと思うほどの鬱憤はどうしたらいいのだろう。その鬱憤を、リーグ三位のKオリオンズの活躍で散らす日々で、バ課長がまた馬鹿を言い出した。
「だからね、契約が十二月までだから、十月中にはコーディネーターさんに話をつけておきたいんだ」
定時を過ぎてもデスクにいる彼に手招きされたときから嫌な予感はしていた。だが悪い方に想像以上だ。
「無理です。これ以上スタッフを減らせば仕事が回りません」
バ課長だからといって本当に馬鹿を言わないでほしい。
「大丈夫だって。社員を減らす訳じゃないんだから」
ふざけるなと思った。彼は十二月末までの契約を更新せずに、一人残っていた派遣も切ると言い出した。本人がいないところで話すために定時後に残っていたのだ。
「社員の二人は時短です。五時まで働ける人材が減るのは困ります」
「嘱託さんがいるでしょ」
「欠勤すれば四時からの一時間はワンオペになります。俺に休みを取るなと言いたいんですか?」
言外に、お前はどうせ仕事をしないだろというニュアンスを籠めたが、それくらい許されると思った。なんだ、喧嘩か? と周りの部署の人間が遠巻きに見ているが構っている場合ではない。昊のプライベートタイムどころか命が懸かっているのだ。
「そのときは俺が頑張るって」
そう言って頑張った例がないだろう。
「九時まででも十時まででも残業してくれると言うんですか? いつもいつも子どもが子どもがと言って帰ってらっしゃいますよね」
「まぁ、原田くんはまだ子どもがいないから分からないよね。子どもは大事にしないと」
「論点がズレています。俺が休んだ日は課長が責任をもって残業してくれるんですよね」
「翌日に回せばいい。二日も有休を取ることはないだろ?」
脳裏に出刃包丁が復活した。昊がいない間に終わらせる気などない。有休を取るなら翌日苦しめばいいと言いたいのか。ふざけるな。
「分かりました。では……」
辞めます。怒りの感情のまま言おうとして、そこでスッと空気が動いた。
「内村さん?」
無表情の彼が昊のデスクに残っていた残業分の書類の束を掴んで、課長の席を素通りしていく。ばさりと置いたのは部長のデスクだ。
「今日中にお願いします。課長がやりたくないそうなので」
それだけ言ってくるりと踵を返す。
「おい。営業部の人間がなんだ」
面食らっていた部長が言葉を発したところで、内村が口角を上げた。
「……!」
そのまま目許を綻ばせる様子を、まるで花開く瞬間を見るように見つめてしまう。美しい微笑みのまま振り返れば、その場にいた人間がみな息を呑んだ。ただ笑っただけ。なのに周りにいたみなが動けなくなる。途方もなく美しい男の本領発揮を、昊も呆然と眺める。
「帰り支度して、原田さん」
いつもの表情に戻った彼が昊のデスクの傍で言った。
「え? でも」
「いいから早く」
急かされてつい従ってしまう。
「いい? じゃあ、帰ろう」
気づいたときには彼に肩を抱かれて出口に向かっていた。
「おい、残りの仕事」
立ち上がって声を上げる課長に、今度は無表情のままの内村が振り向く。
「たまには部課長コンビで仕事をしてみたらどうですか。とても優秀なんでしょうから」
そう言い放って、振り向こうとする昊を強引に連れ出してしまった。そのままエレベーターに乗せられて、一体この状況はなんだろうと混乱する。
「……笑顔で攻撃できるんですね、内村さん」
何から聞けばいいか分からなくて、どうでもいいことを聞いた。
「俺もよく分からないけど、あんな風に笑うと、みんな十秒くらいフリーズしてくれる」
その笑顔に見惚れるのだと気づいていないところが彼らしい。ピンポーンと一階に到着して、いや、ここで帰っちゃダメだろと、漸く正常な思考が戻ってきた。
「仕事に戻らないと、今日の分の書類が終わらない」
「あの二人にやらせておけばいい」
「できるとは思わない。明日俺が地獄を見るだけです」
「大丈夫。俺がなんとかするから」
九月に入ってもまだまだ暑さが続く毎日。お盆はとうに過ぎたというのに、みななんだかんだ理由をつけて欠勤と早退を繰り返す。いやいや、刺がありすぎる。みなそれぞれ事情があるのだ。分かっているが、そのうち昊の身体を内側から破壊するんじゃないかと思うほどの鬱憤はどうしたらいいのだろう。その鬱憤を、リーグ三位のKオリオンズの活躍で散らす日々で、バ課長がまた馬鹿を言い出した。
「だからね、契約が十二月までだから、十月中にはコーディネーターさんに話をつけておきたいんだ」
定時を過ぎてもデスクにいる彼に手招きされたときから嫌な予感はしていた。だが悪い方に想像以上だ。
「無理です。これ以上スタッフを減らせば仕事が回りません」
バ課長だからといって本当に馬鹿を言わないでほしい。
「大丈夫だって。社員を減らす訳じゃないんだから」
ふざけるなと思った。彼は十二月末までの契約を更新せずに、一人残っていた派遣も切ると言い出した。本人がいないところで話すために定時後に残っていたのだ。
「社員の二人は時短です。五時まで働ける人材が減るのは困ります」
「嘱託さんがいるでしょ」
「欠勤すれば四時からの一時間はワンオペになります。俺に休みを取るなと言いたいんですか?」
言外に、お前はどうせ仕事をしないだろというニュアンスを籠めたが、それくらい許されると思った。なんだ、喧嘩か? と周りの部署の人間が遠巻きに見ているが構っている場合ではない。昊のプライベートタイムどころか命が懸かっているのだ。
「そのときは俺が頑張るって」
そう言って頑張った例がないだろう。
「九時まででも十時まででも残業してくれると言うんですか? いつもいつも子どもが子どもがと言って帰ってらっしゃいますよね」
「まぁ、原田くんはまだ子どもがいないから分からないよね。子どもは大事にしないと」
「論点がズレています。俺が休んだ日は課長が責任をもって残業してくれるんですよね」
「翌日に回せばいい。二日も有休を取ることはないだろ?」
脳裏に出刃包丁が復活した。昊がいない間に終わらせる気などない。有休を取るなら翌日苦しめばいいと言いたいのか。ふざけるな。
「分かりました。では……」
辞めます。怒りの感情のまま言おうとして、そこでスッと空気が動いた。
「内村さん?」
無表情の彼が昊のデスクに残っていた残業分の書類の束を掴んで、課長の席を素通りしていく。ばさりと置いたのは部長のデスクだ。
「今日中にお願いします。課長がやりたくないそうなので」
それだけ言ってくるりと踵を返す。
「おい。営業部の人間がなんだ」
面食らっていた部長が言葉を発したところで、内村が口角を上げた。
「……!」
そのまま目許を綻ばせる様子を、まるで花開く瞬間を見るように見つめてしまう。美しい微笑みのまま振り返れば、その場にいた人間がみな息を呑んだ。ただ笑っただけ。なのに周りにいたみなが動けなくなる。途方もなく美しい男の本領発揮を、昊も呆然と眺める。
「帰り支度して、原田さん」
いつもの表情に戻った彼が昊のデスクの傍で言った。
「え? でも」
「いいから早く」
急かされてつい従ってしまう。
「いい? じゃあ、帰ろう」
気づいたときには彼に肩を抱かれて出口に向かっていた。
「おい、残りの仕事」
立ち上がって声を上げる課長に、今度は無表情のままの内村が振り向く。
「たまには部課長コンビで仕事をしてみたらどうですか。とても優秀なんでしょうから」
そう言い放って、振り向こうとする昊を強引に連れ出してしまった。そのままエレベーターに乗せられて、一体この状況はなんだろうと混乱する。
「……笑顔で攻撃できるんですね、内村さん」
何から聞けばいいか分からなくて、どうでもいいことを聞いた。
「俺もよく分からないけど、あんな風に笑うと、みんな十秒くらいフリーズしてくれる」
その笑顔に見惚れるのだと気づいていないところが彼らしい。ピンポーンと一階に到着して、いや、ここで帰っちゃダメだろと、漸く正常な思考が戻ってきた。
「仕事に戻らないと、今日の分の書類が終わらない」
「あの二人にやらせておけばいい」
「できるとは思わない。明日俺が地獄を見るだけです」
「大丈夫。俺がなんとかするから」
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