恋は乗り越えられない試練を与えない。

 言いながら、何やらスマホ画面を熱心に見ている。誰かとやりとりをしているのだろうか。何か予定があったのなら申し訳ない。そう思ったが、出てきたのは意外な言葉だ。
「安井君人のグッズ貰ったら嬉しい?」
「え?」
「俺、看病できないから、何か嬉しいことをすれば少しはよくなるのかなって」
「……」
 意図を理解して笑ってしまう。
「うん。安井さんのグッズを見れば元気になる」
「じゃあ、待って。いいやつを探す」
 どうやらネットで探して買ってくれようとしたらしい。安井君人は目立たない中継ぎ投手だから個人のグッズは出ていない。選手の名前が並んだタオルや、チーム全員のクリアファイルはあるが、個人のものは今後に期待という状態。それでも彼の気持ちが嬉しい。ファミレスに行った日、複雑な幼少期だったのかなと思った。もしかしたら、きちんと看病されたことがないのかもしれない。それなのに昊を元気にするにはどうしたらいいか考えてくれた。
「元気になりました。遅くなってすみません。帰りましょう?」
「電車で帰れる?」
「大丈夫」
 強がりではなく、内村のお陰で頭痛がマシになっていた。家に頭痛薬の買い置きがある。明日は箱ごと持ってきてデスクに入れておこう。思いながら、手早く帰り支度をする。
 タクシーを使おうという彼に大丈夫だと言って、いつも通り駅まで歩いた。彼は職場ビル前から地下鉄に乗るというが、乗り換えて自宅最寄りまで帰る電車は同じだった。乗り換えしないで毎日十五分も歩いているなんて信じられないと言いながら、昊と並んで帰ってくれる。今日はさっさと地下鉄に乗って帰った方がいい気もしたが、少し風に当たりたかった。辿り着いた地上駅。乗り込んだ電車では昊が降りる駅が二つ先。混雑がデフォルトの車内で、二人で吊革を掴んで窓の外を眺める。
「原田さんの駅まで一緒に行く」
 もうすぐ彼の家の最寄りというところで言われた。
「いや、大丈夫ですよ。引き返してもらうのも悪いし」
「いい。せめて同じ駅まで行くくらいさせて。俺、何もできなかったから」
 ビルの灯りが綺麗な窓の外を見たまま言う、彼の横顔を見上げる。
「書類を数えてくれて片付けまでしてくれたでしょう? 俺、嬉しかったですよ」
 そこは訂正しておかなければと思った。
「みんな休むし帰っちゃうし、俺の苦労を分かってくれるのは内村さんだけです。感謝しています」
 ごく素直な気持ちを告げれば、彼がこちらに顔を向ける。相変わらずハッとするほど綺麗な顔の、左の口角が僅かに上がる。あ、嬉しくて笑ってくれたと、分かるようになった自分に気がつく。
「じゃあ、駅まで一緒にいてもらっていいですか? もう少し内村さんと話したいから」
「優しいな」
 ぽつりと零したその顔がとても綺麗なのに、何故かとても幼く見えた。こんな風に、誰かに肯定されることを求めているのかもしれない。そんなことを思う。
 二駅はすぐで、二人で降りて、彼が戻る電車を待つことにする。
「待ってなくていいよ。早く帰って寝た方がいい」
「大丈夫。どうせ三分くらいですから」
 そう言って立っていれば、彼もそれ以上止めない。隣の電車の発車メロディーを聞きながら、何を話すでもなく電車が去っていく風を感じる。不思議と無言が苦痛ではない。彼も同じ気持ちでいてくれたらいいと、密かにそう思う。
「じゃあ、また明日。お大事に」
 すぐにやってきた電車に乗って彼が手を振った。ただの各駅だというのに、別れの新幹線みたいに見えなくなるまで見つめてしまう。
 変人なんかじゃない。彼はとても優しい。エスカレーターで改札に向かいながら思った。優しくしてもらった分を返したい。彼に喜んでほしい。力になりたい。駅を出た先のアーケードで、一歩足が進むたびに思いが湧き上がる。
 当たり前のことが経験できない子ども時代だったのなら経験させてあげたい。させてあげたいは傲慢だろうか。それより、あなたは変ではないし、そのままでなんの問題もないと伝えてあげたい。彼のために何ができる? いつのまにか頭痛も忘れて、家までの道のりをずっと彼のことを考えて歩く。
 母親の気持ちに近いのかもしれない。不器用な優しさをくれた彼に、母の優しさに似たものを返したい。聖母マリアって顔じゃないけど。そんなことを思っていた。
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