恋は乗り越えられない試練を与えない。
「それで、結局使っちゃっているからな」
素人ならではの言いたい放題でテキストの更新を待つ。運悪く次の打席は四番。どうか抑えてください。なんなら四番バッターは敬遠でも。そう思ったが、安井は勝負をかける。
『見逃し三振。三アウト』
ポンと現れた文字に手を叩いた。
「よし、抑えた! 流石、安井さん」
うっかりまた抱きついてしまって、ぱっと手を離す。
「……前も言ったけど、まだ九回があるって。ゼロ対ゼロだし」
「安井さんが抑えたら、一度そこで気が抜けるんです。ああ、よかった。ちょうど仕事も終わったし」
抱きついた気まずさもあってデスクに伏せれば、彼が傍までやってくる。
「あとは片付けだけ?」
「うん。枚数チェックと後片付けの前にちょっと休憩」
流石に疲れて、短い時間でも姿勢を崩して休みたかった。
「自販機で飲み物買ってくる。何がいい?」
「すっきりするやつ。スポドリかオレンジ炭酸」
「随分違うな」
笑いながら、彼が執務室の外にある自販機に向かう。やはり変人でもスクリプト人間でもない。こうしてアドリブで優しくしてくれるじゃないか。ふっと笑って目を閉じる。
「──原田さん。原田さん!」
どれくらいそうしていたのか。酷く慌てた声を聞いた。顔を起こそうとするのに、頭痛が酷くて動けない。せめて大丈夫だと伝えたいのに、それすらできない。動かない身体に抵抗したくて、うー、うーと唸っている自分を、他人事のように感じている。
「救急車……」
内村がスマホを操作しようとしたのに気づいて、そこで漸く正気が戻ってきた。
「……大丈夫。ちょっと頭が痛いだけ」
前頭部の頭痛は続いているが、辛うじて身体は機能を取り戻した。ゆっくりと顔を上げて彼を止める。よかった、声も出る。
「この頃よく頭痛がするんです。朝が一番酷いから、多分仕事行きたくない病だと思うんですけど」
冗談にして笑おうと思ったが、そこにズキリときて額を押さえる。
「四階から頼りになりそうな人を呼んでくる」
「待って」
コール部門に向かおうとする彼の袖を引いて止めた。
「本当に大丈夫。残業しすぎて頭が痛くなっただけ」
少し頭痛が弱まって、なんとか微笑みらしきものを作った。彼が迷うように昊を見つめる。
「そこに座ってて。俺、それ数えるから」
昊が譲らないから、助けを呼びに行くのは諦めたらしい。代わりに開き直ったように言って、キャスターの椅子ごと昊を隣に移動させてしまう。
「いや、ちょっと休めば……」
「いいから、隣で試合の続きでも見ていて。書類を数えるくらい、俺がやっても怒られないでしょう?」
有無を言わさずスマホを返される。どうやら五分程意識を失っていたらしい。見慣れたテキストが九回表、Kオリオンズの攻撃を速報している。
「数えて五十ずつの束にしておけばいい?」
「うん。ありがとう」
まだ本調子ではなくて、デスクに乗せた腕に顔を乗せて、スマホと彼の仕事ぶりを交互に眺めた。彼がミスをするとは思わないから監視ではない。彼のすらりとした指が、器用に書類を操る様子が、弱った脳に心地いい。
「……あ、打った」
そのうちKオリオンズが犠牲フライで一点を取った。三アウトになるが、ゼロが並ぶスコアボードに漸く一と表示される。
「よかったな」
手を動かしながら、彼は昊の言葉にも応えてくれた。数えた書類を纏めて積み上げていく。弱い頭痛は続いているのに幸せな気分だ。彼の仕事ぶりを眺めていれば、穏やかな海のように心が落ち着いていく。
画面上では九回裏、Kオリオンズの守備。中継ぎ投手が回またぎをすることは滅多にないから安井は交代。九回はクローザーと呼ばれる投手が、一点のリードを護るために力投している。
「勝った……」
ショートゴロ、三アウト、試合終了。腕に顔を乗せた姿勢のまま、Kオリオンズの勝利を眺める。
「書類も纏め終わった。引き出しに片付ければいい?」
「うん。放り込んでおいてください」
ここまで来たら素直に甘えようと思った。
「ありがとう。助かりました」
みな昊に任せて帰ってしまう課で、まさか他部署の人間に救われるとは思わない。
「体調は?」
「少しマシになりました」
「タクシーで帰る?」
「ううん。あと五分休めば平気。電車で帰ります」
弱く応えれば、どうするか迷うように眉を寄せた彼が、結局自分のスマホを手にして傍に座り直す。
「遅くまで付き合わせてすみません。用事があるなら先に帰って大丈夫ですよ」
「いくら俺でもそんなことはしない」
素人ならではの言いたい放題でテキストの更新を待つ。運悪く次の打席は四番。どうか抑えてください。なんなら四番バッターは敬遠でも。そう思ったが、安井は勝負をかける。
『見逃し三振。三アウト』
ポンと現れた文字に手を叩いた。
「よし、抑えた! 流石、安井さん」
うっかりまた抱きついてしまって、ぱっと手を離す。
「……前も言ったけど、まだ九回があるって。ゼロ対ゼロだし」
「安井さんが抑えたら、一度そこで気が抜けるんです。ああ、よかった。ちょうど仕事も終わったし」
抱きついた気まずさもあってデスクに伏せれば、彼が傍までやってくる。
「あとは片付けだけ?」
「うん。枚数チェックと後片付けの前にちょっと休憩」
流石に疲れて、短い時間でも姿勢を崩して休みたかった。
「自販機で飲み物買ってくる。何がいい?」
「すっきりするやつ。スポドリかオレンジ炭酸」
「随分違うな」
笑いながら、彼が執務室の外にある自販機に向かう。やはり変人でもスクリプト人間でもない。こうしてアドリブで優しくしてくれるじゃないか。ふっと笑って目を閉じる。
「──原田さん。原田さん!」
どれくらいそうしていたのか。酷く慌てた声を聞いた。顔を起こそうとするのに、頭痛が酷くて動けない。せめて大丈夫だと伝えたいのに、それすらできない。動かない身体に抵抗したくて、うー、うーと唸っている自分を、他人事のように感じている。
「救急車……」
内村がスマホを操作しようとしたのに気づいて、そこで漸く正気が戻ってきた。
「……大丈夫。ちょっと頭が痛いだけ」
前頭部の頭痛は続いているが、辛うじて身体は機能を取り戻した。ゆっくりと顔を上げて彼を止める。よかった、声も出る。
「この頃よく頭痛がするんです。朝が一番酷いから、多分仕事行きたくない病だと思うんですけど」
冗談にして笑おうと思ったが、そこにズキリときて額を押さえる。
「四階から頼りになりそうな人を呼んでくる」
「待って」
コール部門に向かおうとする彼の袖を引いて止めた。
「本当に大丈夫。残業しすぎて頭が痛くなっただけ」
少し頭痛が弱まって、なんとか微笑みらしきものを作った。彼が迷うように昊を見つめる。
「そこに座ってて。俺、それ数えるから」
昊が譲らないから、助けを呼びに行くのは諦めたらしい。代わりに開き直ったように言って、キャスターの椅子ごと昊を隣に移動させてしまう。
「いや、ちょっと休めば……」
「いいから、隣で試合の続きでも見ていて。書類を数えるくらい、俺がやっても怒られないでしょう?」
有無を言わさずスマホを返される。どうやら五分程意識を失っていたらしい。見慣れたテキストが九回表、Kオリオンズの攻撃を速報している。
「数えて五十ずつの束にしておけばいい?」
「うん。ありがとう」
まだ本調子ではなくて、デスクに乗せた腕に顔を乗せて、スマホと彼の仕事ぶりを交互に眺めた。彼がミスをするとは思わないから監視ではない。彼のすらりとした指が、器用に書類を操る様子が、弱った脳に心地いい。
「……あ、打った」
そのうちKオリオンズが犠牲フライで一点を取った。三アウトになるが、ゼロが並ぶスコアボードに漸く一と表示される。
「よかったな」
手を動かしながら、彼は昊の言葉にも応えてくれた。数えた書類を纏めて積み上げていく。弱い頭痛は続いているのに幸せな気分だ。彼の仕事ぶりを眺めていれば、穏やかな海のように心が落ち着いていく。
画面上では九回裏、Kオリオンズの守備。中継ぎ投手が回またぎをすることは滅多にないから安井は交代。九回はクローザーと呼ばれる投手が、一点のリードを護るために力投している。
「勝った……」
ショートゴロ、三アウト、試合終了。腕に顔を乗せた姿勢のまま、Kオリオンズの勝利を眺める。
「書類も纏め終わった。引き出しに片付ければいい?」
「うん。放り込んでおいてください」
ここまで来たら素直に甘えようと思った。
「ありがとう。助かりました」
みな昊に任せて帰ってしまう課で、まさか他部署の人間に救われるとは思わない。
「体調は?」
「少しマシになりました」
「タクシーで帰る?」
「ううん。あと五分休めば平気。電車で帰ります」
弱く応えれば、どうするか迷うように眉を寄せた彼が、結局自分のスマホを手にして傍に座り直す。
「遅くまで付き合わせてすみません。用事があるなら先に帰って大丈夫ですよ」
「いくら俺でもそんなことはしない」