恋は乗り越えられない試練を与えない。
仄暗い地下街を歩く出勤ルートが好きだ。ガラス越しに一人で開店準備をするドーナツ屋の店員も、ディスプレイで楽しませてくれるチョコレート店も、台湾料理の辛そうな麺の看板も、何度見ても飽きることがない。マイカー通勤の兄に一緒に出勤すればいいと言われて、断った甲斐があったというものだ。
前職でも同じ道を歩いて通っていたのに、全く別の景色に見えるのが不思議だった。仕事のことばかり考えて歩いていた道を、期間限定のドーナツを思い浮かべながら歩く。病気になったからこそ得られた貴重な時間。そう何事もポジティブに思うようになったのは恋人と別れてからだ。幸せな暗示はいつか真実になる。だから辛くなくなるまでポジティブの暗示をかけ続ける。
カラフルなドーナツは魅力的だが今の自分には少し重い。だから今日は帰りにお茶を買って帰ろう。地下道のテナントスペースにあるティーショップは、奇をてらわない素朴な紅茶が人気で、著名人もお忍びで買いに来るという。それでいてティーバッグ十袋入りが七百円という庶民の価格なのだから満点だ。
業後のご褒美のことを考えながら長い地下通路を歩く。距離はそうでもないのに、三つの地下鉄の改札が複雑に入り組んでいるから、歩けば結構な時間になる。漸く現れた石階段で地上に出て、そこから徒歩五分のビルのワンフロアが勤務先。原田メディカルサプライ。兄の大地 が経営している介護用品会社だ。
「おはよう、昊 くん。今日も早いわね」
声を掛けてくれるのは同じ総務部の遠藤だ。社員三十人程の会社なので、彼女と二人で総務の仕事を回している。四十代半ばの彼女は昊が社長の弟だということも知っていて、同じ名字で紛らわしいという理由で下の名前で呼んでいる。
「遅延が当たり前の路線なのでつい」
「遅延なら遅刻扱いにならないのに、真面目ね」
そう言いながら昊よりも早く出勤して朝の雑務を片付けてくれる彼女は、開業当初からの社員で大地の信頼も厚い。そんな訳で大地以外の社員でただ一人、昊の病気のことを知っている。
「今日コピー用紙の業者さんが来るから頼んでおいて」
「A4とA3を二箱ずつでいいですか?」
そんな感じでスタートする日常。前の会社でも事務員だったが、総務は初めてで毎日が新しい発見の連続だ。新鮮な日々は心の鬱憤を晴らしてくれる。
細々とした作業の他に電灯の交換を買って出れば、遠藤に大袈裟に感謝された。噂を聞きつけた大地から、『危ないことをするな』とお叱りのラインが届くが、どう見ても怖くない猫のスタンプつきだから笑ってしまう。怒ってはいないが心配している。大地は八つ年下の昊に甘い。彼に心配させないように、その後は大人しくデスクワークを進めていく。
きっちり五時で上がって、朝と同じ道を帰った。地上を五分、地下通路を十五分。そのあと地上ホームに出て電車で十五分。帰宅時の電車は楽ではないが、辛いというほどでもない。運よく座席に座ることができて、また小さなポジティブを積み上げる。そうして辿り着くのは耐震仕様の二階建てマンションの二階。2LDKの部屋に帰って、大地が帰ってくる前に夕食の支度をする。
『ちょっと遅くなりそうだから、先食べてて』
フライパンで綺麗に鮭が焼けたところでラインが入った。経営者の彼はこんな風に遅くなることが多い。食事は一緒に摂りたいからキリのいいところで手を止めて、一度自室に引っ込むことにする。前職を退職したとき大地が用意してくれた部屋で、ベッドに寄りかかってスマホを操作する。
「あ、勝ってる」
見るのは野球のテキスト速報だ。Kオリオンズというチームのファンで、試合がある日の勝敗チェックは欠かさない。
「あ、安井 」
お気に入りのピッチャーの登場に声を上げて、そんな自分に小さく笑う。Kオリオンズの中継ぎ投手、安い 君人 。八回の神と呼ばれる彼は、どんなピンチでも零点に抑える天才だ。例えノーアウト満塁で交代を命じられても切り抜ける。数年前から知っていた選手だが、訳あってすっかり嵌ってしまった。彼がいるから頑張れる。考えるうちに、彼は平然と八回を三者三振で抑えてしまう。
「流石、安井」
スマホに向かって拍手したところで部屋のドアが開いた。
「またスマホで野球観戦か」
「あ、兄さんお帰り」
ドアの前でネクタイを緩める彼が笑うのに、昊も笑顔で応える。
「テキストだけじゃつまらないだろ? 手のひらサイズのテレビでも買ってやろうか?」
前職でも同じ道を歩いて通っていたのに、全く別の景色に見えるのが不思議だった。仕事のことばかり考えて歩いていた道を、期間限定のドーナツを思い浮かべながら歩く。病気になったからこそ得られた貴重な時間。そう何事もポジティブに思うようになったのは恋人と別れてからだ。幸せな暗示はいつか真実になる。だから辛くなくなるまでポジティブの暗示をかけ続ける。
カラフルなドーナツは魅力的だが今の自分には少し重い。だから今日は帰りにお茶を買って帰ろう。地下道のテナントスペースにあるティーショップは、奇をてらわない素朴な紅茶が人気で、著名人もお忍びで買いに来るという。それでいてティーバッグ十袋入りが七百円という庶民の価格なのだから満点だ。
業後のご褒美のことを考えながら長い地下通路を歩く。距離はそうでもないのに、三つの地下鉄の改札が複雑に入り組んでいるから、歩けば結構な時間になる。漸く現れた石階段で地上に出て、そこから徒歩五分のビルのワンフロアが勤務先。原田メディカルサプライ。兄の
「おはよう、
声を掛けてくれるのは同じ総務部の遠藤だ。社員三十人程の会社なので、彼女と二人で総務の仕事を回している。四十代半ばの彼女は昊が社長の弟だということも知っていて、同じ名字で紛らわしいという理由で下の名前で呼んでいる。
「遅延が当たり前の路線なのでつい」
「遅延なら遅刻扱いにならないのに、真面目ね」
そう言いながら昊よりも早く出勤して朝の雑務を片付けてくれる彼女は、開業当初からの社員で大地の信頼も厚い。そんな訳で大地以外の社員でただ一人、昊の病気のことを知っている。
「今日コピー用紙の業者さんが来るから頼んでおいて」
「A4とA3を二箱ずつでいいですか?」
そんな感じでスタートする日常。前の会社でも事務員だったが、総務は初めてで毎日が新しい発見の連続だ。新鮮な日々は心の鬱憤を晴らしてくれる。
細々とした作業の他に電灯の交換を買って出れば、遠藤に大袈裟に感謝された。噂を聞きつけた大地から、『危ないことをするな』とお叱りのラインが届くが、どう見ても怖くない猫のスタンプつきだから笑ってしまう。怒ってはいないが心配している。大地は八つ年下の昊に甘い。彼に心配させないように、その後は大人しくデスクワークを進めていく。
きっちり五時で上がって、朝と同じ道を帰った。地上を五分、地下通路を十五分。そのあと地上ホームに出て電車で十五分。帰宅時の電車は楽ではないが、辛いというほどでもない。運よく座席に座ることができて、また小さなポジティブを積み上げる。そうして辿り着くのは耐震仕様の二階建てマンションの二階。2LDKの部屋に帰って、大地が帰ってくる前に夕食の支度をする。
『ちょっと遅くなりそうだから、先食べてて』
フライパンで綺麗に鮭が焼けたところでラインが入った。経営者の彼はこんな風に遅くなることが多い。食事は一緒に摂りたいからキリのいいところで手を止めて、一度自室に引っ込むことにする。前職を退職したとき大地が用意してくれた部屋で、ベッドに寄りかかってスマホを操作する。
「あ、勝ってる」
見るのは野球のテキスト速報だ。Kオリオンズというチームのファンで、試合がある日の勝敗チェックは欠かさない。
「あ、
お気に入りのピッチャーの登場に声を上げて、そんな自分に小さく笑う。Kオリオンズの中継ぎ投手、
「流石、安井」
スマホに向かって拍手したところで部屋のドアが開いた。
「またスマホで野球観戦か」
「あ、兄さんお帰り」
ドアの前でネクタイを緩める彼が笑うのに、昊も笑顔で応える。
「テキストだけじゃつまらないだろ? 手のひらサイズのテレビでも買ってやろうか?」
1/11ページ