未来の次の恋

 立ち上がって、施術に使ったフェイスカバーを捨てに立つ彼の背に笑いながら応えてやる。だが弁護士バージョンの光が見たいというのは密かに本心だった。今は整体師で独立しているが、光の前職は弁護士だ。それもテレビCMで聞くような大手法律事務所に所属していた。
 法科大学院に行った光はあっさり司法試験に合格して、司法修習も難なく熟して、着実に弁護士への道を歩んでいた。ずば抜けて賢いだけでなく、人間関係も上手くやれてしまう男。相手が望むものを瞬時に把握し、望み通りの言動をする。だが他人の思い通りにはならず、少しずつ自分のプランに取り込んでいく。ついてくるのは成功と評価。そんな器用で自信に溢れた光は誠の憧れだった。誠もそこそこ賢いと言われるタイプだが光には全く敵わない。悔しいという気持ちはなくて、物凄い兄がいるということが誇りだった。
 そんな光が突然弁護士を辞めると言い出したのは三年前だ。整体師の学校に行くと言った光に両親は反対したが、誠は彼ならそれも上手くやれるだろうと信じていた。予想通り腕のいい整体師になった彼は、早々に独立して、この加村治療院を開いた。もう神経を擦り減らして働きたくない。そう言って平日の週四日だけ予約の客を治療している。今は整体師の収入より投資の収入の方が多いが、それで満足だと言う。光がそれでいいなら誠に反対する理由はない。転職の味方になってくれたお礼だと言って、こうして誠の身体を治療してくれているという訳だ。
「患者に貰った団子があるけど食べるか?」
「うん。貰う」
「よかったな、和菓子で」
 誠が笑えば振り向いた彼も笑う。切れ長の鋭い目が柔らかみを帯びて、誠の心を癒してくれる。背が高くてジムできちんと鍛えている彼だから、無造作に縛っていた髪を解いて掻き揚げる仕種がサマになっている。後ろでギリギリ結べる程度の長さだが、その髪を切れと言われたから弁護士を辞めようと思った。そう彼は言う。
「ああ、それより先に何か食べに出るか」
 どこまでも弟を甘やかす台詞を向けられて、身体だけでなく気持ちも解れていった。
「なんだか申し訳ないな。加村院長の治療を独り占めしているだけでも贅沢なのに」
「何言っているんだよ」
「予約待ちも多いんでしょう? 週にもう一日治療する日を増やせばいいのに」
 腕がいいからついそう思ってしまう誠の言葉に、彼が口角だけを上げる妖しげな顔を見せる。
「お前が受付と経理をやってくれるなら考えてもいい」
「またそんな」
「本気だ」
 既に外に出る気で短白衣を脱いでいた彼が、鋭い視線に戻って誠を見つめる。
「辛いなら辞めていい。会いたくない男がいるなら俺のところで働けばいい」
「……ありがと」
 その台詞に、今日も辛うじて頷くことはやめておく。
「行くぞ。何が食べたい?」
 しつこく話を続けるタイプではない彼が、治療中の一つ結びではなく、ハーフアップで後ろに一つ団子を作った髪型に変えながら言う。男性でそんな髪型が似合うのは光くらいじゃないかと、いつも思うことをまた思う。
「うーん、うどんか蕎麦かな」
「年寄りかよ」
 言葉と裏腹に優しく笑う彼が施錠をするのを待って、一人なら出ることのない休日の街に出ていくのだった。
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