未来の次の恋

「大丈夫? 具合が悪いの?」
 だがそこで、夏の陽炎みたいに揺らいでいた景色が現実味を帯びた。
「ああ、可哀想に泣いちゃって。ちょっと交番で休んでいきな」
 思っていたのと違う台詞に、どうしていいか分からなくなる。
「こんな白くて細くて、この暑さで倒れるんじゃないかってお巡りさん心配しちゃうよ。入って、入って。うちはどうせ暇だから、麦茶でも飲んでいって」
 ぱっと見よりもずっと年配の警察官が、誠の腕を優しく引いて休むように言ってくれる。話し好きらしい彼の次から次へと続く言葉に、予知や呪いに惑わされていた感情が、一度に今いる場所へと戻ってくる。
 未来が変わった。惨事が起こらなかった。そのことに呆然としてしまう。
「誠!」
 警官に腕を引かれる誠に気づいて、久慈が慌てて駆けてきた。
「誠」
 相手は絶対に危ない人間ではないと分かっているのに、それでも敵から奪うように反対の腕を引く。そのまま腕に包むように抱き寄せてくれる。
「なんだ、ちゃんとナイトがいるじゃないか」
 あっさりと誠の腕を離した警官が、小さなことには拘らない様子で声を上げて笑う。
「あんた、ちゃんと護ってやらなきゃダメだろ。心細くて泣いていたんだから。ほら、二人で仲よく、二軒隣の駄菓子屋のコスモスケーキでも食べて帰りな。ケーキって言ってるけど、実は練り切りでな」
 話すだけ話して満足したのか、警官は交番の建物内に戻っていった。
「……いいお巡りさんなんだろうね」
 言われて頷いて、そこで気づいて、信じられない思いで彼の顔を見上げる。
「俺を警察に突き出そうとしたんじゃないんですか?」
「は? 僕が誠にそんなことをする筈がないでしょう? 第一どんな罪を犯したっていうの」
「何度も何度も電話したから、もう嫌になったんじゃないんですか? いい加減俺に疲れたって」
「ああ。それはごめん」
 何故か彼に詫びられて、意味が分からなすぎて言葉を失う。
「マスコミ関係の電話がひっきりなしで、父の会社の弁護士に電話を取り上げられていたんだ。番号を調べて、あまりにもしつこいところには法で対処しようってね。でも」
 彼が誠の腕から手に握り替えて、小さな子どもを見るような目になって言う。
「今朝、弁護士から電話を返された。もう一通りしつこい取材の電話の会社は調べ上げたからって。そこで教えられた。一つ、マスコミとは一切関係ない相手からの電話が鳴っています。凄く沢山って。大事なお友達でしょう? すぐに掛け直してあげてくださいって」
 そんな事情があったなんて知らなかった。もう誠のことを好きではなくなった彼が、わざと出てくれないのだと思った。だが違った。弁護士に電話を返されてすぐ連絡をくれた。そしてこの場所を指定したのは警察に突き出そうとしたからではない。
「約束したよね。コスモスケーキっていう名前の練り切りを買いに行こうって」
「……はい」
 予知は外れた。宣言通り、久慈は誠の惨事を超えてくれた。いや、そうではない。初めから惨事の先には未来があったのかもしれない。これまで惨事をただ黙って受け入れてきた。超えた先の未来を見たいと思う相手に巡り合えなかった。その相手に漸く巡り合えた。
「あの警察官が先にネタばらしをしてしまって、なんだよって思った。お店の前で誠を驚かせようと思っていたのに」
 いつもの調子の久慈の様子に胸に安堵が広がっていく。一度マスコミのネタになった彼だから、そう簡単には面倒からは逃れられないだろう。だがもう不安はない。予知は外れた。だからこれから、未来をよくしていけるように誠の方が動けばいい。もう怯えることはない。また別の惨事を見ることがあっても、それも超えてみせたいと思う。それほど誠にとって彼は特別な存在。
 気がつけば傍の畑にはコスモスがぱらぱらと咲いていた。まだ一面のコスモス畑ではないけれど、綺麗だと思う。そして久慈とは、またこの場所が一面臙脂色に染まった頃見に来ることができる。何度でも会って、何度でも出掛けることができる。それを実感して、胸に泣きたくなるような温かさが広がっていく。
「誠」
 件の駄菓子屋に向かいながら、久慈がふと静かな声になって言う。
「不安にさせてごめん。一度は諦めようとしてごめん。でもあの大量の着信履歴を見て、もう絶対に離さないって決めたから」
 そう言われると、今更自分のしたことが恥ずかしくなる。予知に引き摺られて随分大人げないことをしてしまった。あんな狂ったような着信を残さなくても、きっと彼に会える方法はあった。だがそれをしたから予知から逃れられた。久慈には迷惑を掛けてしまったけれど、予知通りに行動して、惨事の先に未来があることを知った。ずっと抱えてきたものから解放された。これからは素直に久慈を好きだと言うことができる。
「……馬鹿みたいなことをしてすみませんでした。流石に大量すぎて怖くなったんじゃないですか?」
「ううん。嬉しかった。誠があんなに電話を掛けたのは僕が初めてだろうからね」
 もちろんそうだ。
「もうあんな馬鹿なことはしません」
 足を止めて言えば、同じように立ち止まった彼が包み込むように抱き寄せてくれる。
「僕の方こそ、もう二度とあんな思いはさせない」
 一度強く抱きしめて、腕を緩めたタイミングでくれたキスを幸せな気持ちで享受する。
「好きだよ、誠」
「俺も」
 まだ解決していないことが残っている。これからまた悩むことがあるかもしれない。けれど彼と話して解決していけたらいいと思う。
 目的の店に入れば先程の警官以上に元気な店主が、ガラスケースにケーキという名の練り切りを並べるところだった。
「ああ、いらっしゃい。お兄さんたち運がいいね。作り立てだよ。このケーキは毎日数量限定だからね」
 駄菓子屋の店主の筈の彼の言葉に笑って、一番乗りで仲直りの印を手に入れることになった。
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