未来の次の恋

 光の声が聞こえた気がして、誠の手を握っていた手が離れた。夢と現実の境目のようなところで、止まらない涙だけを自覚している。傍にいた彼が離れて、ドアがパタンと閉められる。
「……待って、久慈さん」
 自分でも何を言っているのか分からないまま、心の声が音になった。起き上がって追いかけたいのに身体が動かない。気配を感じて、誠の声に戻ってきてくれたのかと思ったが、次に誠の身体に触れたのは光だ。
「ただの夢だ。忘れていい」
 光が幼い子ども相手のように言ってこめかみに触れる。そこで眠気に意識が引き摺られる。
「……!」
 一日中靄に包まれていたような意識がはっきりしたのは朝になってからだ。ほとんど飲まず食わずで一日中眠っていたなんて信じられない。だがそんなことを気にしている場合ではない。
「ねぇ、兄さん、昨日ここに久慈さんが来た?」
「いや。昨日は予約の患者しか来ていない」
 一階に下りて聞いてみるが、光は表情を変えないまま答えるだけだ。
「仕事に行く。鞄を置いたままだから、一旦家に帰らないと」
「一日中寝ていたんだ。そんなふらふらの状態で仕事ができる訳がないだろ?」
「ううん、大丈夫。ありがとう。兄さんのお陰でよく眠れた」
 一日中眠った。彼の声を聞いた。そのお陰で自分のしたいことが見えてきた。やはり予知からは逃れられない。それでもいい。迷惑を掛けるだろう。だが紺華建設には弁護士も秘書も多くいる。きっと彼を護ってくれる。だから最後の我が侭を許してほしい。
 時間に余裕があるから電車で戻ると言ったのに、光が車で誠の部屋まで送ってくれた。今日も仕事があるのに、自宅に帰らず治療院に泊まってくれた。ベッドも誠に譲って、不自由な寝泊まりをさせてしまった。両親と不仲の誠にとって、やはり彼は一番心を許せる人間だ。けれどあと一度だけ、彼の厚意を無駄にするような行動を許してほしい。
「何があっても俺は誠の味方だから、気が済むまでやったら俺のところに戻ってこい」
 ありがたい言葉だと思う。そんな都合のいいことをするつもりはないが、今はありがとうと礼を言って頷いておく。
 シャワーを浴びて身形を整えて職場に向かったあとは、当日欠勤で迷惑を掛けた社員に頭を下げて回った。
「いつも一人で頑張っているから、たまには休んでも罰は当たらないよ」
「身体、まだ本調子じゃないなら無理するな」
 みながそんな言葉をくれて、改めてこれ以上ないいい職場で働いていたのだと思う。ずっと人と深く関わらないように過ごしてきた。飲み会やイベントごとにも、六年で数えるほどしか参加していない。それでも誠の存在を認めてくれていた。なんだ、一人ではなかったではないかと、今更そんなことに気づいて笑う。
 あからさまにやれば察した人間があとで苦しむと思ったから、見つからない程度にデスクを片付けた。いらない書類を捨てて、引き出しに一つ残っていたミニどら焼きを最後の晩餐代わりに食べてしまう。
 綺麗に空になった引き出しの一段目に、すぐ分かるように白い封筒を置いた。辞表。勤めていた六年間で書こうと思ったことはないが、何人か辞める人間が書いたものを見たことがあるから、定型文は頭に入っている。
 最後に発送業務を終えてパソコンの終了ボタンを押せば、久慈がデザインした白くて丸いキャラが『お疲れさま』と言ってくれた。その吹き出しに目を細めてパソコンの電源を落としてしまう。誠だけでなく、久慈ももうこのオフィスには戻らないかもしれない。けれどこの便利なシステムはずっとここに残ってくれればいい。
 最後になるだろう帰り道を、一歩ずつ踏みしめるようにして帰った。家に帰ったあとお風呂に入って髪を乾かす。とても暑い日になるから、少しでも彼の目に心地よく映っていたい。
 常識のある秘書や弁護士なら、真夜中にコンタクトを取ろうとしたりしないだろう。だから誠は真夜中から始めようと思った。ベッドに正座をして、日付が変わってから電話を掛け始める。何度コール音を鳴らしても彼は出てくれない。留守電に切り替わることさえないが、彼に会えるまで続けると決めているから留守電など必要ない。一分鳴らして一度切ったあとで、また発信ボタンに触れる。また一分鳴らし続ける。また切ったあとで、もう一度発信ボタンに触れる。それでも彼は出てくれないが覚悟の上だ。朝まで続ければいい。これが予知で見ていた現実だ。続ければ根負けした彼が一度だけ出てくれる。そうすれば彼に会える。一目姿が見られればいい。一目会えたら、もうそこで捕まってもいい。電話を掛け続けたことも、女優に怪我をさせたことも、償えという方法で償ってやる。そんな気持ちで発信を繰り返す。
 朝まで掛け続けるから、折れた彼が出てくれるのだ。朝になって掛けても彼は出てくれない。だから夜から掛ける。何十回と掛け続ける電話。これが誠と久慈の惨事。分かっていて、やはり今度も逃れられなかった。だが後悔はない。
 時々力尽きて短く眠って、充電が切れた電話を充電しながら、その他の時間はずっと掛け続けた。そういえば彼が、誠が沢山電話をしてくれたら嬉しいと言った。そんな、もうずっと昔のことのように思える場面を思い返す。もう嬉しいなんて言っていられない。誠の電話は狂気だろう。トラウマになったら申し訳ないが、その辺りはきっと、あの美しい婚約者がフォローしてくれる。
 夜が明けて七時を過ぎたところで、漸く彼からラインが入った。
『○○駅の△△口に来て』
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