未来の次の恋
自分に呆れるように彼が笑う。
「そんな僕を見て、きっと恋愛事には無縁の息子に見えたんだろうね。仕事にも慣れた頃、両親が結婚話を持ってきた」
よくある話だ。だが続いた話は誠の想像の斜め上を行っていた。
「断ろうと思ったんだ。女性と結婚生活を送れるような人間じゃないことは自覚していたし。でも」
相手の事情が大きすぎて断れなかったと彼は言った。
「……お妃候補?」
「そう。詳しくは話せないんだけど、とある身分の高い男性のお妃候補にされそうになっていた女性でね。そんなところに嫁げば生涯の苦労は目に見えているから、候補から外れるように婚姻歴を作りたいって頼まれたんだ。気に入らなければ別れていいから、とにかく一年間二人で暮らして、結婚していた事実を作ってほしいって」
何十年も前に似たような話があったが、まさかこの時代に同じことがあるとは思わない。誠が信じられないようなことも、彼らの周りでは普通に起こってしまうのだろうか。
「家柄も性格も教養も申し分ない人で、逆に言えば彼女にはげ道がなかったんだ。それで、嫌な人生を強いられるのも可哀想だと思って、僕は申し出を受けることにした」
すぐに書類上の結婚をして、広い部屋を借りて二人で暮らし始めたのだという。
「それぞれの部屋があったし、彼女のお手伝いさんが毎日やってきたから夫婦という感じではなかったけど、一つの家で暮らしていれば普通に親しくなっていくものでね。二人で買いものや散歩に行くようになった。今思えば育ってきた環境が似ているから当然と言えば当然なんだけど、よく行く美術館とか、好みのレストランが似ていたんだ。物静かで優しい子だったし、僕はこのまま夫婦を続けてもいいかなって思うようになった」
彼に生涯共に暮らしてもいいと思える女性がいた。その事実は少し苦しくて、苦しさを散らすようにほうじ茶の茶碗に手を伸ばす。
「でも一年経ったとき、あっさり振られた。あなたは私のことなんか好きじゃないし、私もこれから本気で好きになれる人を見つけたいってね。あまり自己主張しないタイプだと思っていたけど、最後だけ本音でぶつかってこられて、ああ、彼女の何も見ていなかったんだなって気づいた」
二人の両親は結婚生活が続くことを期待していたのだろう。だが彼女に拒否されれば久慈も反対はできず、約束通り離婚になったという。
「そもそも反対するほど強い気持ちがあった訳じゃないから」
当時の思いはもう乗り越えたという風に彼が笑う。すっかり手が止まってしまった誠を促してから、自分もししとうの天ぷらに箸を伸ばす。その指先も箸の使い方も見惚れるほど綺麗だと思うのは、秘めなければならない気持ちを抱えているからだろうか。薬味の葱の器を綺麗にしてしまった彼が、もう少し話してくれる。
「彼女に言われたことはもっともだなと思った。僕も本気で好きになれる人を見つけたい。それに、彼女が思うよりは僕は彼女を好きでいたのに、少しも伝わっていなかった。思っているだけじゃ伝わらない。傍にいたいと思う人を見つけたら、ちゃんと言葉で伝えないといけないんだって学んだんだ。バツイチにはなったけど、いい経験をしたと思うよ」
「いい経験だと考えられるのが凄いと思います」
「ありがとう」
そこで箸を置いた彼が楽しげな顔になって誠を見つめる。
「ついでに、もうバツイチの経歴ができてしまったから、好きに恋愛をしようと思った。男性が好きだと騒がれようと別にいいじゃないか。犯罪な訳じゃないし、そもそも紺華建設はもう、会長の孫の恋愛事情くらいでどうにかなる会社じゃないって開き直れるようになった」
「……それはよかった」
話が妙な方向に進みそうで、同じように箸を置いた誠はまたお茶の茶碗に手を伸ばす。
「次に好きになった人には全力でいこうと思って今に至るという訳。だから恋愛が苦手という話も嘘じゃない。恋愛が苦手だった、という言い方にできればいいとは思っているけど」
「なるほど」
「その相手が加村さんという訳だね」
「……」
一体なんと答えればいのだろう。好きだと言ってくれたのは冗談ではなかった。ついでに友人としてとか部下としてという意味でもない。きちんと説明されて逃げ場がなくなってしまう。
だが誠にしても、全くその気がなかった訳ではない。バツイチの事情が知りたいからというのは建前だし、光の忠告を無視して来ている。
「失礼いたします」
そこで着物姿の店員がやってきて、小さな硝子の皿をテーブルに置いた。
「七月の限定品で、今週は昼間のお客さまにサービスでおつけしているんです。どうぞ召し上がってください」
「そんな僕を見て、きっと恋愛事には無縁の息子に見えたんだろうね。仕事にも慣れた頃、両親が結婚話を持ってきた」
よくある話だ。だが続いた話は誠の想像の斜め上を行っていた。
「断ろうと思ったんだ。女性と結婚生活を送れるような人間じゃないことは自覚していたし。でも」
相手の事情が大きすぎて断れなかったと彼は言った。
「……お妃候補?」
「そう。詳しくは話せないんだけど、とある身分の高い男性のお妃候補にされそうになっていた女性でね。そんなところに嫁げば生涯の苦労は目に見えているから、候補から外れるように婚姻歴を作りたいって頼まれたんだ。気に入らなければ別れていいから、とにかく一年間二人で暮らして、結婚していた事実を作ってほしいって」
何十年も前に似たような話があったが、まさかこの時代に同じことがあるとは思わない。誠が信じられないようなことも、彼らの周りでは普通に起こってしまうのだろうか。
「家柄も性格も教養も申し分ない人で、逆に言えば彼女にはげ道がなかったんだ。それで、嫌な人生を強いられるのも可哀想だと思って、僕は申し出を受けることにした」
すぐに書類上の結婚をして、広い部屋を借りて二人で暮らし始めたのだという。
「それぞれの部屋があったし、彼女のお手伝いさんが毎日やってきたから夫婦という感じではなかったけど、一つの家で暮らしていれば普通に親しくなっていくものでね。二人で買いものや散歩に行くようになった。今思えば育ってきた環境が似ているから当然と言えば当然なんだけど、よく行く美術館とか、好みのレストランが似ていたんだ。物静かで優しい子だったし、僕はこのまま夫婦を続けてもいいかなって思うようになった」
彼に生涯共に暮らしてもいいと思える女性がいた。その事実は少し苦しくて、苦しさを散らすようにほうじ茶の茶碗に手を伸ばす。
「でも一年経ったとき、あっさり振られた。あなたは私のことなんか好きじゃないし、私もこれから本気で好きになれる人を見つけたいってね。あまり自己主張しないタイプだと思っていたけど、最後だけ本音でぶつかってこられて、ああ、彼女の何も見ていなかったんだなって気づいた」
二人の両親は結婚生活が続くことを期待していたのだろう。だが彼女に拒否されれば久慈も反対はできず、約束通り離婚になったという。
「そもそも反対するほど強い気持ちがあった訳じゃないから」
当時の思いはもう乗り越えたという風に彼が笑う。すっかり手が止まってしまった誠を促してから、自分もししとうの天ぷらに箸を伸ばす。その指先も箸の使い方も見惚れるほど綺麗だと思うのは、秘めなければならない気持ちを抱えているからだろうか。薬味の葱の器を綺麗にしてしまった彼が、もう少し話してくれる。
「彼女に言われたことはもっともだなと思った。僕も本気で好きになれる人を見つけたい。それに、彼女が思うよりは僕は彼女を好きでいたのに、少しも伝わっていなかった。思っているだけじゃ伝わらない。傍にいたいと思う人を見つけたら、ちゃんと言葉で伝えないといけないんだって学んだんだ。バツイチにはなったけど、いい経験をしたと思うよ」
「いい経験だと考えられるのが凄いと思います」
「ありがとう」
そこで箸を置いた彼が楽しげな顔になって誠を見つめる。
「ついでに、もうバツイチの経歴ができてしまったから、好きに恋愛をしようと思った。男性が好きだと騒がれようと別にいいじゃないか。犯罪な訳じゃないし、そもそも紺華建設はもう、会長の孫の恋愛事情くらいでどうにかなる会社じゃないって開き直れるようになった」
「……それはよかった」
話が妙な方向に進みそうで、同じように箸を置いた誠はまたお茶の茶碗に手を伸ばす。
「次に好きになった人には全力でいこうと思って今に至るという訳。だから恋愛が苦手という話も嘘じゃない。恋愛が苦手だった、という言い方にできればいいとは思っているけど」
「なるほど」
「その相手が加村さんという訳だね」
「……」
一体なんと答えればいのだろう。好きだと言ってくれたのは冗談ではなかった。ついでに友人としてとか部下としてという意味でもない。きちんと説明されて逃げ場がなくなってしまう。
だが誠にしても、全くその気がなかった訳ではない。バツイチの事情が知りたいからというのは建前だし、光の忠告を無視して来ている。
「失礼いたします」
そこで着物姿の店員がやってきて、小さな硝子の皿をテーブルに置いた。
「七月の限定品で、今週は昼間のお客さまにサービスでおつけしているんです。どうぞ召し上がってください」