未来の次の恋

 恋愛絡みのメンタル管理がこれほど難しいとは思わなかった。気持ちをセーブしなければと思うのに、矢崎の件で毅然とした態度を見せた彼の姿が忘れられない。
 タイミング悪く、名倉に午後から久慈の外出に付き合えないかと言われたのは、矢崎が受電に復帰した週の金曜だった。その日に限って発送処理も全て終わっていて、大丈夫ですと言うしかない。
「ごめんね、加村さん。一人でいいって言ったんだけど、名倉さんがマネージャーが一人は体裁が悪いって言い張って」
「いえ。営業部からもパンフレットの差し替えを頼まれたので」
 電車を乗り継いで向かうのは、グループ企業の一つの紺華ホテルズだ。カードの利用が多いホテルに顔を出して、新しい現場支配人に挨拶をしておくらしい。紺華バリューのためというより、後々紺華建設で昇進していく久慈のための挨拶なのかもしれないが、どちらにせよ誠は久慈のお供を務めて、ついでにロビーに置いてあるパンフレットの差し替えをしてくるだけだ。そう思っていたのに、タクシーではなく営業社員と同じように電車で移動する彼に、また余計な好感を持ってしまう。
「そうだ。何かあったときのために、これ、持っておいて」
 目的のホテルの最寄り駅に着いたところで彼が名刺をくれた。紺華バリューの名刺ができ上がったらしく、『(株)紺華バリュー マネージャー』と書かれている。
「裏に僕の個人的な連絡先も書いてあるから、何かあれば連絡して」
 スマートだなと思った。連絡先を交換する流れは困るが、こう言われて自分の連絡先だけ教えない訳にもいかない。
「あとで俺の連絡先も送っておきます」
「うん。ありがとう」
 歩きながらまた彼が微笑む。もう恋愛はしないと決めた誠だが、女性の恋人と過ごしたことで、やはり恋愛対象は男性だったと自覚している。その誠にいい男の微笑みは困りものだ。割と本気で困っている。物理的には無理でも、メンタル面で彼を遠ざけるにはどうしたらいいのだろう。
 そうこう思ううちに到着したホテルの支配人は元々久慈の知り合いだったらしく、挨拶は世間話程度で済んだ。久慈がこのホテルにいる昔の先輩にも挨拶に行くと言うので、その間に誠はパンフレットを差し替えて回る。パンフレットのラックの位置は書面でもらっていたから、その書面通りに回ってスムーズに作業を終えた。久慈とはエントランスの鉢植え前で待ち合わせしていて、そこのソファーで、社に持ち帰って廃棄するパンフレットを整理しながら待つ。
 自身のタスクが終わってしまったので、ソファーの奥に邪魔にならないように座って建物内を眺めた。紺華ホテルズのホテルの中でも新しいホテルなのだろう。シックなテーブルと椅子で纏められたロビーを観察していて、そこでフロントの奥から出てくる一人の女性に気がつく。伝言でもあったのか、ロビーにいた客と一言話してまたスタッフルームに戻っていく。その彼女の横顔を見た瞬間、息が止まるかと思った。その顔には見覚えがある。
「里菜!」
 自分らしくもなく感情で動いてしまった。振り向いて誠の顔を見た彼女が顔色をなくす。間違いない。三年前まで付き合っていた恋人だ。そういえば以前も彼女は紺華ホテルズの社員だった。だが余命僅かだからと言って退職した筈ではなかったか。未だに働き続けているのはどういう訳だ。
「里菜、どうして……」
 動けない様子の彼女に駆け寄った。だが彼女は怯えたような表情を見せるだけで何も言わない。
「鈴木さん、どうかした?」
 只事ではない様子を感じたのか、受付から先輩らしい別のスタッフが走ってきた。誠を悪質なナンパだと思ったのか、厳しい目を向けられるが、そんなことはどうでもいい。問題は、込山だった筈の彼女が鈴木と呼ばれたことだ。そこで漸く彼女が声を発する。
「いえ、ただの人違いです。大変失礼しました、お客様」
 そう言って他人のフリで去っていく。
「お待たせ、加村さん。お茶でも飲んで帰ろうか」
 先輩スタッフもフロントに戻ったところで、タイミング悪く久慈が戻ってきた。彼に弱みを見せる訳にはいかないと分かっていながら、取り繕うことができない。
 込山だった彼女が鈴木と呼ばれていた。大人になってから名字が変わる理由は結婚だろう。医師の宣告が外れて元気になって、それから知り合った男性と結婚したのか。それとも好きな男ができて、誠と別れるために病気だと嘘を吐いていたのか。嘘だとしても責める気はない。問題はそこではないから。
 誠の予知は外れていた。それなら予知の未来に怯えて暮らす必要はなかったのではないか。恋愛を諦めて静かに暮らす必要も。そんな思いが身体中を駆け巡る。
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