未来の次の恋

 過度に驚くでもなく笑ってみせる。薄暗い空間ではっきり見えるのは口元だけなのに、いい男だと感覚で分かってしまう。
「終業後にオフィスを見に行ってもいいと言われていたんだけど、まだ社員さんがいたとは思わなかった。ごめん。驚かせてしまったかな」
「いえ」
 落ち着きすぎるほど落ち着いた態度だった。とりあえず暗いところで話すのも何かと、執務室の入り口の照明スイッチを入れに行く。
「あなたはどこの部署の人?」
 思ったよりも近い位置で声がして、振り向いた途端に、いつのまにかすぐ傍まで来ていた彼としっかり目が合ってしまった。
「……!」
 そこで言葉を失う。明るくなった部屋で彼の端整な顔を見れば、頭の中で映像が再生される。しまった、と思ったときには遅かった。三年振りの症状に頭がパニックを起こして、膝から崩れてしまう。これはまずい。
「どうしたの? 大丈夫?」
「触らないで!」
 肩に触れてきた手を、必要がないほど力一杯払ってしまった。それを悪いと思う心の余裕はない。触れられたことで、また新たな映像が湧き上がって、今の誠の現実の意識が消えていく。
 午前中から全力で暑い夏に、スマートフォンを手に何度も同じ番号に電話する自分の姿。出てくれない。どうして出てくれないのだと、壊れそうな気持ちでリダイヤルを繰り返して、十回目で漸く相手が出てくれる。
「誠」
 その声を聞いただけで涙が込み上げる。この先の未来を諦めたみたいな、彼の静かな声。
「その道を少し行くと左に曲がる道があるでしょう? そこを曲がって歩いてきて」
 誠に断る理由はない。繋がったままなのに、もう何も言ってくれない電話を握りしめて、言われた通りの道を進んでいく。
 左に曲がって少し歩いたところで彼の望みは分かった。二階建てのこぢんまりとした建物があって、開け放たれた入口のところに制服姿の男性が立っている。交番だ。彼は誠が捕まることを望んでいる。もう疲れたのだ。怒りはない。曇り一つない未来を邪魔する人間なら排除されて当然だ。それでいい。それでも一目会いたかった。
「誠」
 もう一度名前を呼ばれて、それで充分だった。ここに来た意味があった。ここに来ると決めてよかった。もう後悔はない。
「ごめん」
 彼の謝罪に首を振って応えたところで、堪えきれずに涙が落ちる。涙を拭って顔を上げたところで、すぐ傍にいた警官が誠に手を伸ばす。
「──大丈夫? しっかりして!」
 彼の声で、意識が現実へと返ってきた。
「何かの発作かな? 救急車を……っ」
 手を振り払われたことを気にする様子もなく、誠の身体を抱きかかえるようにして聞いてくる彼の身体を、突き飛ばすようにして離れる。
「ちょっと、待って」
 謝罪すらできずに、執務室を出て廊下を全力で走った。彼が追ってこないうちにエレベーターに乗って、閉のボタンを連打する。ドアが閉まってエレベーターが降り始めたところで漸く呼吸が戻ってきた。それでも酸素不足の身体はなかなか機能を乗り戻せなくて、壁に頭を押しつけて吸って吐いてを繰り返す。
 三年振りだ。もう二度と起こらない筈だったのに。何故またやってくるのだ。
 痛みと哀しみでぐちゃぐちゃの心で、何故、何故を繰り返す。
 紺華バリューは平和な職場だった。過度に業績アップを狙う社風でもなく、穏やかで多くの社員が長く務める。社内の人間が誠のアンテナに引っ掛かることもない。漸く普通の生活が送れると思っていたのに、何故またこんな目に遭わなければならないのだ。
 ゴンゴンと頭を壁にぶつけているうちに一階に到着して、降りてふらふらと夜間通用口から外に出る。目の前の景色がとても頼りなくて、薄暗いアスファルトの道を歩きながら途方に暮れてしまった。
 警察官が出る映像だった。今度はどんな目に遭うのだろう。いや、もう御免だ。もう何があっても恋愛はしないと決めたのだ。とぼとぼと歩いているうちに鞄を置いてきたことに気づいたが、財布とスマホがポケットに入っているからたいした問題ではない。今問題なのは、あの男が何者なのかということ。
 紺華バリューに関わりのない男で、二度と会うことがなければいい。だがあの場所にいた以上それは難しいだろう。せめて別の会社の人間だといい。どうか自分の人生に関わることがありませんようにと、指を組んで祈る。
 慣れた道の筈が、行く先がやけに暗くて帰り方が分からない。ありえないのに本気でそんな気持ちになって、長くそこに立ち尽くしていた。
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