未来の次の恋

 暗に出世させる人材ではないと言っているし、言われるまでもなく、岡本がこんな危うい人間を重用しようとは思わないだろう。
「お互いに念書を書かせるのはどうでしょう?」
 悠々とした様子で久慈が仕上げに入った。
「矢崎には社内社外を問わず二度と暴力沙汰を起こさないように書かせますから、そちらも二度と己の欲望のために他社の求人を利用することがないように」
「そのように致します」
 岡本はもう白旗状態だ。
「紺華建設グループには社会規範に反する行為をしないという理念がありますから、妻がいる立場で他の女性と親密な関係になることも控えていただきたいところですが、そこはまぁ、プライベートですから、岡本部長の判断にお任せします」
 上手いなと思った。これで佐山は岡本の指示で、二度と不倫はしませんという文言を念書に追加せざるを得なくなる。そして少なくとも数年は出世はないだろう。それでも甘い。解雇や家族にバラされることがなかっただけ、ありがたいと思ってほしい。冗談ではなく、久慈はそれができてしまう立場なのだ。
「この件について何か不満がありましたら、ぜひ直接僕のところまでいらしてください。すぐ隣の会社におりますから。もちろん通報ダイヤルに通報していただいても構いません。実は僕、調査に応じるのが大好きなもので。くれぐれも、今後矢崎本人に接触することがありませんように」
 そんな久慈の駄目押しの言葉で、紺華レンタルとの話し合いが終わったのだった。
「ああ、疲れた」
 廊下を戻って、自社の執務室に入った途端にそんなことを言うから笑ってしまう。
「疲れていないでしょう? 寧ろ生き生きとして見えましたけど」
「ふふ。バレた?」
 振り向いた彼の顔が満足げで、彼と近づきすぎないようにと気をつけている誠でさえ、やれやれと笑い返したくなってしまう。
「ああいう、自分以外の人間は道具で、他社の採用システムも利用してしまえばいい、みたいに思う人間は好きじゃないんだよね。改心させるのは難しくても、多少怖い思いをさせたくなる」
「充分怖かったと思いますよ。今後冷遇とまではいかなくても厄介者扱いされるでしょうし」
「だね。さて、コールの役席に矢崎さんの念書の件をお願いしないと」
 彼女は今日、出社はしているがコール部門の事務作業を言いつけられている。紺華バリューは客層が客層だから、動揺からおかしなことを口走ってお客様を不快な気分にさせてはいけないという配慮があるのだ。人手不足だろうとトークの質は落とさない。その徹底ぶりが会社を存続させている。
「矢崎さんの念書は俺が紺華レンタルに渡しに行きますよ。揚げ足を取られないように、文言のチェックだけお願いします」
「ありがとう。助かるよ。佐山さんはもちろん、岡本部長ももう僕の顔なんて見たくないだろうから」
 そんなこんなで念書を交わし合い、矢崎が退職させられることもなく紺華レンタルとの件は解決済みということになった。矢崎は今週一杯、事務作業とコンプラ研修、倉庫整理などをしてもらって、月曜から受電に復帰させることにしたと真壁から聞いた。
「数日受電から離れれば噂話は広がるだろうし、その辺は苦しいと思うけど、そこは頑張って耐えてもらうことにしたんだ」
 真壁に言われて、酷だろうが耐えてほしいと思った。逆に言えば、そこを過ぎればお咎めなしということだ。
 紺華バリューはスタッフを大事にする社風だ。しばらくコール部門の上司が注意して見ていることになるだろうが、確かコールの女性上司は穏やかで、若い社員を包み込むようなタイプの人間の筈だ。矢崎の気持ちを理解して支えてくれるだろう。事件に初めに関わってしまった人間として、誠もサポートしていくつもりだ。
 そんなこんなで受電禁止の期間を耐えて、金曜の午後、誠のところに謝罪に来てくれた彼女に安堵した。
「雑務お疲れさま。月曜からまた今まで通り頑張って」
「はい。迷惑を掛けてすみませんでした」
「いいえ」
 失恋は辛かっただろうが、みんなで彼女を護ったのだ。もう佐山のような男に惑わされないでほしいと、口にはしないが切に願っている。
「久慈マネージャーも、お手間を掛けてしまってすみませんでした」
 誠のあと、奥のデスクにいた久慈にも彼女が謝罪に行く。流石に誠よりも緊張気味に言葉を選んでいるが、彼なら若い女性スタッフの気持ちを和ませることくらい簡単だろう。そう思っていたのに、意外に彼の態度はそっけなかった。
「加村さんとコールの上司に謝罪できたなら充分。またしっかり仕事をして」
 それだけ言ってパソコンに視線を戻してしまう彼に、あれ? と思う。自身の苦労を言い触らすようなタイプではないだろうが、立役者の割にあっさりしすぎている。もしかして誠が思うより疲れていたのだろうか。もう一度頭を下げて去っていく矢崎に視線すら遣らない彼の態度に首を傾げる。
 まぁ、よく分からないのは今に始まったことではない。それに矢崎の件が済んだなら、自分はまた『一線モード』に戻らなければならない。そう思うのに、何故かそれが以前よりずっと難しくなるような気がする。
 ちょっと格好よすぎだったよなと、佐山を言い負かした彼を思い出して、また困ってしまった。
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