未来の次の恋
充分な給料は払うから俺のところで働けばいい。それは光が何度も言う台詞だった。元弁護士だった男だ。一人で受付や会計を熟せなくはないだろうから誠のためだ。空いた時間にお前の施術もしてやれると言ってくれるが、流石にそこまで甘えるのは抵抗があった。今の仕事を投げ出したくないという気持ちもあるし、光の人生を邪魔したくない。光に想いを寄せる女性の一人や二人いるだろう。誠がくっついていれば邪魔をしてしまいそうで怖い。もう三七だというのに女性の気配がないのは自分のせいではないかと思っている。本音は毎日でも行きたいが、光に会いに行くのは週に一度までと決めているのはそのためだ。
別に紺華バリューを辞めたい訳ではない。自分だってきちんと働いている一社会人だ。久慈がいなくなるまで一年耐えればいい。好きにならなければいいのだと、心を立て直して週明けの仕事に向かう。どう思われようと、今日も眼鏡とマスク出勤だ。
だがいつものように他の社員より三十分早く出勤すれば、その日は隣のデスクに久慈の姿がなかった。ほっとして鞄を下ろしてパソコンを立ち上げようとして、隣の椅子に既に鞄が置かれているのに気がつく。
「久慈さん?」
まだ閑散とした執務室を見回せば、中央の作業台に彼はいた。作業台の前に大きな柱があって、コール部門と事務部門の境目のようになっている。日中はコールから事務に送られる書類がラックに入れて並べられるのだが、まだ早い時間だから台の上は片付いている。その台の柱の傍にお飾りのように置いてあるパソコンで、彼が何やら作業をしている。
「そのパソコン動きますか?」
なんとなく近づいて声を掛けた。彼に興味がある訳ではない。不正をするとは思わないが、一つのパソコンの不具合から社内システム全てがダウンすることもあるから、総務主任として見ないフリはできないと思ったのだ。
「おはようございます、加村さん」
相変わらず、突然声を掛けても動じない男だ。
「メンテナンスしたら普通に動いたから、ちょっと使わせてもらおうと思って」
「一体何に使うんですか?」
問えばにっこり笑ってモニターを指される。仕方がないので隣に座って目を遣れば、見たことのないシステムが画面に表示されていた。
「久慈さんが作ったんですか?」
「そう」
彼がなんでもないことのように返してくる。
「コール部門のスタッフの手書きメモを修正しながら発送業務をしているでしょう? だからメモをここに置いてもらって、手の空いているリーダーがネットで正確な住所を調べて入力しておけばいいと思って。もちろん僕もやるよ」
驚いた。画面の一覧表を見れば、メモから発送完了までの進捗が、色の違いで分かるようになっている。
「これで少しは加村さんの負担が減るでしょう? あ、名倉部長の許可は取ってあるから心配しないで」
この執務室では危機管理のために、役席者しかパソコンのネットの閲覧が許されていない。そんな時代遅れの規則も、彼はとっくに知っていたらしい。
「これはまだテスト画面なんだけど、加村さんのIDで仕事をしたときだけ特別仕様なんだ。右下の終了ボタンをクリックしてみて」
もうどこから突っ込んでいいか分からなくて、素直に彼の言葉に従う。終了を押した瞬間、画面の右下に白くて丸いふわふわしたキャラが現れて、お疲れさまと言って笑った。その後ゴムボールみたいに跳ねながら消えていく。
「……可愛い」
「ありがとう」
意味が分からない返しに彼の顔を見て、少し遅れて言葉の意味に気がつく。
「まさか久慈さんがデザインしたキャラですか?」
「デザインって程じゃないけど」
思った以上に多才な男を、伊達レンズ越しにまじまじと見つめてしまった。彼が満足げに目を細めるのに気づいて、慌てて顔を逸らして立ち上がる。
「なんでもできるんですね、久慈さんって」
「ふふ。なんでもって訳ではないよ。昔はウェブデザイナーかシステムエンジニアになりたかったから、パソコンには少し詳しいってだけ。まぁ、家庭の事情で別の道に進むことになったけど」
家庭の事情。紺華建設会長の孫なのだから、好き勝手に進路を決める訳には行かないだろう。不憫だと思うが、彼に特に悲観する様子はない。
「今の会社も好きだから、パソコン弄りは趣味なんだ。もう少し改良したら、リーダーさんたちにも協力をお願いしておくね」
そう言って楽しげに作業台のパソコンを落とした彼が、立ち上がってまっすぐ誠に向き合う。
「今日も一日よろしくお願いします、加村さん」
「……こちらこそ」
別に紺華バリューを辞めたい訳ではない。自分だってきちんと働いている一社会人だ。久慈がいなくなるまで一年耐えればいい。好きにならなければいいのだと、心を立て直して週明けの仕事に向かう。どう思われようと、今日も眼鏡とマスク出勤だ。
だがいつものように他の社員より三十分早く出勤すれば、その日は隣のデスクに久慈の姿がなかった。ほっとして鞄を下ろしてパソコンを立ち上げようとして、隣の椅子に既に鞄が置かれているのに気がつく。
「久慈さん?」
まだ閑散とした執務室を見回せば、中央の作業台に彼はいた。作業台の前に大きな柱があって、コール部門と事務部門の境目のようになっている。日中はコールから事務に送られる書類がラックに入れて並べられるのだが、まだ早い時間だから台の上は片付いている。その台の柱の傍にお飾りのように置いてあるパソコンで、彼が何やら作業をしている。
「そのパソコン動きますか?」
なんとなく近づいて声を掛けた。彼に興味がある訳ではない。不正をするとは思わないが、一つのパソコンの不具合から社内システム全てがダウンすることもあるから、総務主任として見ないフリはできないと思ったのだ。
「おはようございます、加村さん」
相変わらず、突然声を掛けても動じない男だ。
「メンテナンスしたら普通に動いたから、ちょっと使わせてもらおうと思って」
「一体何に使うんですか?」
問えばにっこり笑ってモニターを指される。仕方がないので隣に座って目を遣れば、見たことのないシステムが画面に表示されていた。
「久慈さんが作ったんですか?」
「そう」
彼がなんでもないことのように返してくる。
「コール部門のスタッフの手書きメモを修正しながら発送業務をしているでしょう? だからメモをここに置いてもらって、手の空いているリーダーがネットで正確な住所を調べて入力しておけばいいと思って。もちろん僕もやるよ」
驚いた。画面の一覧表を見れば、メモから発送完了までの進捗が、色の違いで分かるようになっている。
「これで少しは加村さんの負担が減るでしょう? あ、名倉部長の許可は取ってあるから心配しないで」
この執務室では危機管理のために、役席者しかパソコンのネットの閲覧が許されていない。そんな時代遅れの規則も、彼はとっくに知っていたらしい。
「これはまだテスト画面なんだけど、加村さんのIDで仕事をしたときだけ特別仕様なんだ。右下の終了ボタンをクリックしてみて」
もうどこから突っ込んでいいか分からなくて、素直に彼の言葉に従う。終了を押した瞬間、画面の右下に白くて丸いふわふわしたキャラが現れて、お疲れさまと言って笑った。その後ゴムボールみたいに跳ねながら消えていく。
「……可愛い」
「ありがとう」
意味が分からない返しに彼の顔を見て、少し遅れて言葉の意味に気がつく。
「まさか久慈さんがデザインしたキャラですか?」
「デザインって程じゃないけど」
思った以上に多才な男を、伊達レンズ越しにまじまじと見つめてしまった。彼が満足げに目を細めるのに気づいて、慌てて顔を逸らして立ち上がる。
「なんでもできるんですね、久慈さんって」
「ふふ。なんでもって訳ではないよ。昔はウェブデザイナーかシステムエンジニアになりたかったから、パソコンには少し詳しいってだけ。まぁ、家庭の事情で別の道に進むことになったけど」
家庭の事情。紺華建設会長の孫なのだから、好き勝手に進路を決める訳には行かないだろう。不憫だと思うが、彼に特に悲観する様子はない。
「今の会社も好きだから、パソコン弄りは趣味なんだ。もう少し改良したら、リーダーさんたちにも協力をお願いしておくね」
そう言って楽しげに作業台のパソコンを落とした彼が、立ち上がってまっすぐ誠に向き合う。
「今日も一日よろしくお願いします、加村さん」
「……こちらこそ」