未来の次の恋

 梅雨の合間にやってきた快晴だった。
 窓から差し込む暖かな日差しを感じていたのに、午後からは驚くほど気温が上がって、窓に近い役席が慌ててブラインドを下ろす。六月からあまり温度を下げればグループ内会議で叱られてしまうと、空調管理者が頭を悩ませながらエアコンの温度を下げて、社員たちが大袈裟に拍手を送って笑う。そんないつもと変わらない穏やかな日常の中に、太陽のような男がやってくるとは思わなかった。
「お疲れ。お先に失礼するぞ」
 執務室の隅にある発送作業用の小部屋に籠もって残業していれば、仲のいい営業部の社員が声を掛けてくれた。
「お疲れ。午後、コピー用紙の搬入手伝ってくれてありがとう。助かった」
「お互いさまだって。じゃあ、あまり無理するなよ」
「うん。ありがと」
 ひらひらと手を振って帰っていく彼に手を振り返して、せいも一度作業台から立ち上がる。発送部屋から執務室に戻ればシンとした空間が広がっていた。奥のスペースにカード紛失二十四時間対応の社員はいるが、今いる場所からは死角になるから誰もいないように見える。誠のデスク付近以外は電気を消してある薄暗い空間。六月の六時なんてまだ明るい筈なのに、蛍光灯の灯りに慣れた夕方はいつもこんな気持ちになるから不思議に思う。
 少し休憩をして、今日オーダーを受けた書類の発送処理を全て終えてから帰る予定だった。デスクの引き出しを開けて、ストックしてあるお菓子の中から最中を選ぶ。残業中の楽しみのおやつタイムだ。デスクの二段目には貰いもののお菓子が並んでいて、一人で発送業務をする自分へのご褒美なのだ。
 誠が勤務する(株)紺華こんかバリューはキャッシングのカード会社だ。グループのトップの(株)紺華建設は日本でも有数の大企業だが、そのグループ会社の一つである紺華バリューは社員五十人ほどの小さな会社。グループ内には紺華カードという大手カード会社があるが、それとは別に、富裕層の奥様ご子息ご息女をターゲットにしたカードが紺華バリューカードなのだ。大々的な宣伝はしておらず、大部分が口コミで広まる、お金持ちの奥様のステイタスというイメージ。誠には一生縁がないだろうが、カードのデザインが選べたり、カード表面に好きな写真を乗せられたりと、そんな細々とした仕掛けが顧客の心を掴んで、ありがたいことに会社を成り立たせてくれている。
 その小さな会社の総務部で誠は働いていた。総務部と呼んでもらっているが、部署には誠しかいない。入社したときには三人だったが、辞めたりグループ内の別企業に移籍になったりで、誠だけが残ったのだ。こんなご時世だから、今後も人員を補充する予定はないらしい。それでも他の部署の社員たちが快く手を貸してくれるので、特に困ることなく働いている。営業も人事も企画も数人しかいないので、相手の部署が忙しければ誠が手を貸すこともある。入社から六年の努力の甲斐あって、今ではこの会社のどの部署の仕事もヘルプで入れるくらいには把握している。という訳で、今の誠には職場で怖いものがなかった。地道な努力で快適な居場所を作り上げた。毎日が平和で平凡。それで自身の特殊なプライベートとバランスが取れているのだから上出来だと思う。この会社に、誠のアンテナに引っ掛かる人間は一人もいない。
 七時には終わるだろうか。
 最中に満足すると、誠も今日はもうそこで仕事をする予定はないから、デスクの上の電気を消してしまった。発送部屋に戻って作業台の上だけ電気を点ける。執務室とこの部屋はドアのない造りだが、作業台から執務室のデスクは死角になるので、ここに籠もれば一人の世界に没頭することができた。コールの社員たちが書いたメモを見ながら、オーダー書類の枚数を数えて、封筒に宛名を書いていく。今日中に終わらせれば、宅配便の週明け朝の集荷で持っていってもらえる。そんな計算をしながら封筒の封をする。
「ん?」
 ふと気づいたのは、三十分程集中したあとだった。
 執務室の方で人の気配がする。警備員の見回りだろうかと立ち上がって入口の向こうに目を遣って、あっと声を上げそうになる。
 背の高いすらりとした男が、窓の傍にある上司たちのデスクに向かって歩いていた。執務室に入るには社員カードを翳さなければならないし、セキュリティのしっかりしたビルだから不法侵入などあり得ない。だがすたすたと歩いて、広い窓の前で足を止める男の姿には見覚えがない。
 さて、どうするか。音を立てないように彼を観察しながら迷った。警備員に電話できても、一階の警備室にいるスタッフが上がってくるのには時間が掛かる。コール部門に行くには執務室を突っ切らなければならないからバレてしまう。それより同じ階の別会社に助けを求めに行く方がいいか。だがその間に機密情報を奪われたらどうする?
 悩む誠に気づく様子もなく、男は暗くなり始めた窓の外を見上げた。初めは空を見ているのかと思ったが、すぐにビルを見ているのだと気がつく。落ち着き払った表情。恥じることは何もないというような、凛とした佇まい。感じた途端にふっと肩の力が抜けた。危険人物ではない。多分紺華建設グループの人間だ。よく見れば胸からゲストカードを下げている。
「……あの」
 なんとなく足音を忍ばせて近づいて、彼の背中から声を掛けた。気づいた彼が振り向く。
「こんにちは。お邪魔しています」
1/62ページ
スキ