好きになったのはあなたです。
あの医者の声で館内放送が鳴り響いた。
無視しよう。これは総務部への依頼ではない。そう思って何事もなかったように仕事を続ける。だがなんとなく予想していた通り、それで諦める彼ではなかった。
『総務部田胡。お前に言っておきたいことがある。さっさとクリニックに来い』
それが医者が患者を呼ぶ態度かと突っ込みたくなる言い草で、不敵な放送は続く。
『五分以内に来い。さもなければ健康診断の結果を読み上げてやる』
脅しかよ。そう、流石に立ち上がってしまった。貧血以外はどれも酷い数値ではないが、小柄だから身長、体重をバラされるのは嫌だ。ちょっと背が高い女子社員より小さくて細いから、男性のプライドが引っ掛かってしまう。
「田胡さん、急ぎの仕事があるなら引き受けますから、どうぞ診察に行ってきてください」
親切な経理部の社員に声を掛けられて降参することになった。
「すみません。何か総務への緊急依頼がありましたら、ぜひ呼び戻してください」
そう言ってしっかり社内携帯をぶら下げてエレベーターに向かう。
「あんな非常識な放送をして、社会人として恥ずかしくないんですか?」
こっちも礼を尽くす必要はないと思ったので、ずかずかとクリニックに入って、抗議の言葉ごと診察室に入った。
「漸く来たか」
人を脅すようなことまで言っておきながら、今日も爽やかなイケメンの彼がパソコンのモニターからこちらに身体を向ける。背が高いからそのまま座っていると却って邪魔になる足を、当たり前のように組んでいるのが憎らしい。
「ご用件は?」
「いいからここに座れ」
有無を言わせない声音で言われて、内心、足を組みすぎて痺れればいいと思った。とりあえず座らないと終わらないと分かったので、彼の前の丸椅子に座る。
「お前の今年の健康診断の結果を見ていた」
意外にも(と言ったら失礼だが)、彼はモニターに電子カルテの情報を表示させていた。健康診断の結果をバラすと言ったのは単なる脅しかと思っていたが、本当に嶺の情報を見ていたらしい。初日と違って今日はシャツの上に長白衣を着ているから医者っぽく見える。
「お前この数値はなんだ?」
だが口調はとても医師らしいとは言えない。
「数値とは?」
「ヘモグロビンだよ。お前、死んでいるんじゃないのか?」
患者に対して死んでいると言う医師がいるだろうか。
「残念ながら俺は生きていて、こうして先生と会話をしていますね」
しまった。うっかり先生と呼んでしまった。あなたとでも呼んで煽ってやればよかったと思うが仕方がない。とにかく内心おかしくなってきて、逆に淡々と答える嶺に、彼が大袈裟にため息を吐く。不敵顔だけでなく人並みに困り顔もできるのかと思えば面白い。
「いいか。成人男性のヘモグロビンの基準値は13g/dl以上だ。お前、9.1しかないってどういうことだ?」
どうと言われても、そういう身体なのだから仕方がない。
「だから言ったでしょう? 重度の貧血だって。心配しなくてもフラフラしたりしないし、仕事も問題なくできています。あ、鉄剤は嫌です。逆に副作用で吐き気が出るので」
一度で済むように説明してやれば、呆れ顔になった彼が電子カルテから嶺に顔を向けた。
「初めて見たときから随分白い顔をしていると思ってはいたが、まさかここまで酷い数値だとはな」
「お褒めに与り光栄です」
「褒めてる訳ないだろ」
想像通りの台詞が返ってきて満足した。無礼な放送で呼び出されて腹が立ったが、一つやり返して気が済んだ。気が済んだから、もう執務室に帰ろうと思う。
「もういいですよね? 仕事があるので戻ります。鉄剤が使えなければ治療法はないでしょうから、もう無駄に呼び出さないでください。千木良先生のようにメンタルケアができるタイプでもなさそうですし」
調子に乗って喋りすぎたと気づいたのは、目の前の彼が不敵に口角を上げたからだ。
「では、俺はこれで」
「あの日は千木良医師に失恋でもして荒れていたのか?」
優位なまま立ち去ろうと思ったのに、形勢逆転の台詞を向けられて、そのまま帰れなくなる。
「あなたに関係ありません」
ああ、しまった。なんのことですか? と惚ければいいのに、何故認めるようなことを言っているのだと思うがもう遅い。
「お優しい千木良先生に優しい言葉を掛けてもらって、つい惚れてしまったってところか。それなのに叶未製薬の常務の娘と結婚だもんな。知っているか? 彼、結婚を機にすっぱり医者を辞めて、叶未製薬で働くらしいぞ。お飾りみたいなのに、給料だけはやたらいいポジションでな」
無視しよう。これは総務部への依頼ではない。そう思って何事もなかったように仕事を続ける。だがなんとなく予想していた通り、それで諦める彼ではなかった。
『総務部田胡。お前に言っておきたいことがある。さっさとクリニックに来い』
それが医者が患者を呼ぶ態度かと突っ込みたくなる言い草で、不敵な放送は続く。
『五分以内に来い。さもなければ健康診断の結果を読み上げてやる』
脅しかよ。そう、流石に立ち上がってしまった。貧血以外はどれも酷い数値ではないが、小柄だから身長、体重をバラされるのは嫌だ。ちょっと背が高い女子社員より小さくて細いから、男性のプライドが引っ掛かってしまう。
「田胡さん、急ぎの仕事があるなら引き受けますから、どうぞ診察に行ってきてください」
親切な経理部の社員に声を掛けられて降参することになった。
「すみません。何か総務への緊急依頼がありましたら、ぜひ呼び戻してください」
そう言ってしっかり社内携帯をぶら下げてエレベーターに向かう。
「あんな非常識な放送をして、社会人として恥ずかしくないんですか?」
こっちも礼を尽くす必要はないと思ったので、ずかずかとクリニックに入って、抗議の言葉ごと診察室に入った。
「漸く来たか」
人を脅すようなことまで言っておきながら、今日も爽やかなイケメンの彼がパソコンのモニターからこちらに身体を向ける。背が高いからそのまま座っていると却って邪魔になる足を、当たり前のように組んでいるのが憎らしい。
「ご用件は?」
「いいからここに座れ」
有無を言わせない声音で言われて、内心、足を組みすぎて痺れればいいと思った。とりあえず座らないと終わらないと分かったので、彼の前の丸椅子に座る。
「お前の今年の健康診断の結果を見ていた」
意外にも(と言ったら失礼だが)、彼はモニターに電子カルテの情報を表示させていた。健康診断の結果をバラすと言ったのは単なる脅しかと思っていたが、本当に嶺の情報を見ていたらしい。初日と違って今日はシャツの上に長白衣を着ているから医者っぽく見える。
「お前この数値はなんだ?」
だが口調はとても医師らしいとは言えない。
「数値とは?」
「ヘモグロビンだよ。お前、死んでいるんじゃないのか?」
患者に対して死んでいると言う医師がいるだろうか。
「残念ながら俺は生きていて、こうして先生と会話をしていますね」
しまった。うっかり先生と呼んでしまった。あなたとでも呼んで煽ってやればよかったと思うが仕方がない。とにかく内心おかしくなってきて、逆に淡々と答える嶺に、彼が大袈裟にため息を吐く。不敵顔だけでなく人並みに困り顔もできるのかと思えば面白い。
「いいか。成人男性のヘモグロビンの基準値は13g/dl以上だ。お前、9.1しかないってどういうことだ?」
どうと言われても、そういう身体なのだから仕方がない。
「だから言ったでしょう? 重度の貧血だって。心配しなくてもフラフラしたりしないし、仕事も問題なくできています。あ、鉄剤は嫌です。逆に副作用で吐き気が出るので」
一度で済むように説明してやれば、呆れ顔になった彼が電子カルテから嶺に顔を向けた。
「初めて見たときから随分白い顔をしていると思ってはいたが、まさかここまで酷い数値だとはな」
「お褒めに与り光栄です」
「褒めてる訳ないだろ」
想像通りの台詞が返ってきて満足した。無礼な放送で呼び出されて腹が立ったが、一つやり返して気が済んだ。気が済んだから、もう執務室に帰ろうと思う。
「もういいですよね? 仕事があるので戻ります。鉄剤が使えなければ治療法はないでしょうから、もう無駄に呼び出さないでください。千木良先生のようにメンタルケアができるタイプでもなさそうですし」
調子に乗って喋りすぎたと気づいたのは、目の前の彼が不敵に口角を上げたからだ。
「では、俺はこれで」
「あの日は千木良医師に失恋でもして荒れていたのか?」
優位なまま立ち去ろうと思ったのに、形勢逆転の台詞を向けられて、そのまま帰れなくなる。
「あなたに関係ありません」
ああ、しまった。なんのことですか? と惚ければいいのに、何故認めるようなことを言っているのだと思うがもう遅い。
「お優しい千木良先生に優しい言葉を掛けてもらって、つい惚れてしまったってところか。それなのに叶未製薬の常務の娘と結婚だもんな。知っているか? 彼、結婚を機にすっぱり医者を辞めて、叶未製薬で働くらしいぞ。お飾りみたいなのに、給料だけはやたらいいポジションでな」