好きになったのはあなたです。

 十月に入って十日も過ぎれば、失恋の傷はだいぶ癒えた。確かに好きだったが、優しさに縋りたいという思いも強かったと、冷静に分析できるようになったのだ。そういえば彼を好きになった頃、厄介な仕事を抱えていた。癒しを求めるように好きになって、その後もずっと好きだと思い込んでいたのではないか。だとしたら、もう厄介な仕事はない。総務も二年半やっているし、一人の部署だが主任の肩書きも与えられている。悩みがないなら誰かに縋ることもない。金曜の午後に診察に行かなくていいなら、昼食を五分で済ませて午後の仕事に掛かることもない。
 という訳でスマホでゲームをしながらバランスバーを食べている。急ぐ必要がなくてもバランスバーは楽でいい。片手でゲームをしながら食べられるし、大きなごみも出ない。ついでにパッケージに鉄分入りと書いてある。これは貧血に効くかもしれない。まぁ、効かなくてもなんの問題もないけれど。そうつらつらと考えながら進めるのは、『方眼塗り絵ほうがんぬりえ』というアプリゲームだ。一年前リリースされた頃から妙に嵌って、一日一度は必ず触っている。
 ゲーム内容はごく単純で、五分に一つ溜まっていくパワーで一マスずつ色をつけていくだけ。だが何色をつけるかは自分で選べるので、同じレベルを完成させてもプレイヤーによって違う絵が出来上がる。五分に一度溜まるパワーは十二個以上にはならないから、如何に隙間時間を見つけて塗っていくかが大切なのだ。パワーが貰えるクイズも出てくるのだが、相対性理論だったりドイツ語だったりやたらと難しい。だから嶺は隙間時間を見つけてこつこつと塗っている。それでもレベル60まで進むことができた。今溜まっているパワーでどこの十二マスをどんな色で塗るか。それを考えれば心が鎮まる。ダウンロードするときの説明に癒しのゲームとあったが、確かに無心でこのゲームに向かっていれば心が落ち着く。落ち着けば元々持ち続けようと思っていた、カナセカへの感謝の気持ちも甦る。
 嶺は卒業後すぐここに来た訳ではなく転職組だった。新卒で入った会社の空気に馴染めず、二年で辞めてここを受けたのだ。選択は間違っていなかったと自信を持って言えるし、カナセカの仲間にも福利厚生にも言葉にできないほど感謝している。
 以前の会社はとにかく病欠に厳しかった。嶺は貧血だが身体に不調はないので休まなかったが、風邪で数日休んだ同僚は怒鳴られたし、インフルエンザで十日休んだ同僚は肩を殴られて怪我を負った。そんな会社の人間関係がいい訳がない。次々に社員が辞めていき、とばっちりの激務で体調を崩す者が出て、その社員を上司がまた怒鳴りつける。彼らがまた辞めるの悪循環だ。ボロボロになりながらもついていっていた嶺だが、あるとき主犯格の上司が「家族サービスで休むのは悪ではないが、風邪で休むのは悪だ」と言い放ったとき、辞めてやろうと決心した。そんな勝手があるかと思った。その日から後任が困らないようなマニュアルを作り、ついでに上司の地雷文言集も作って、完璧なものが出来上がったところで辞めた。テンプレートで書いた辞表の上に、『嫁の尻に敷かれてるからって、会社で憂さ晴らしするんじゃねーよ。バーカ』と書いた付箋を貼りつけてきたのはご愛敬だ。
 そんな過去のある嶺だから、カナセカの社風と人材管理部の方針には感動した。派遣先には礼儀を尽くす。無断欠勤と無断退職は防ぐが、体調不良の欠勤はみなでカバーし合う。そうしてハンデのある人にもできるだけ長く働いてもらう。体調面も時間面もぜひ一度ご相談ください。そんな案内が書き込まれた会社パンフレットが宝の地図のように見えたのだ。
 社員への待遇もありがたかった。給料は安いが、一人暮らしの嶺が暮らしていくのに困らないくらいは貰っている。それに何より、急な体調不良に襲われたときには一階のクリニックで診てもらえる。診療費もほぼタダだ。これまで急な体調不良を起こしたことはないが、傍にクリニックがあると思うだけで違う。同僚が苦しんだときにも運んでやれる。その安心感が好きだった。
 残念ながら方針に感動した人材管理部に配属にはならなかったが、入社後に配属された経理部で楽しく働いた。すると一年後に「田胡は面倒見がいいから総務で働いてくれ」と言われて総務部員になった。今思えば上司の確信犯だったのだろうが、直後にもう一人いた女性社員が結婚退職して一人になったのだ。だが別に嫌がらせではなく、一人でもできそうな奴に声を掛けたというのが本音らしいから、悪い気はしない。その上司も他の部署の人間も手を貸してくれるし、忙しくて困るということはまずない。そんなこんなで懸命に働いていたら、一人の部署にも拘らず主任にしてもらえた。元々転職の人間にここまでしてもらっていいのだろうかと、密かに感動して過ごしていたのだ。
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