好きになったのはあなたです。

「今日は随分不機嫌のようだがな」
「今後あなたと関わることはほぼないでしょうから、演じる必要がないと思ったまでです」
「それはそれは」
 これでどうだという台詞だったのに、彼が面白がるように口角を上げるだけなのが気に入らない。気に入らないが、クリニックを一つ任されるなら嶺よりずっと年上なのだろう。年上の人間に無理に勝とうとすることもない。
「では今度こそ」
「待てって」
「一体なんですか?」
 流石に不機嫌な声が出た。よく分からないが、彼と関わればとても面倒なことになりそうな気がする。面倒なものからは逃げておくに限る。暇に任せて引き止めないでくれ。
「貧血なんだろ? 診察してやる」
「結構です。俺はどこも悪くありませんので」
「貧血なら悪いだろ」
「仕事になんの支障もないと言っているんです。もういいですか? 総務部も暇じゃないので」
 そう言ってもう何も聞かずにクリニックを出てしまう。
 一人のエレベーターで五階に戻りながら後悔した。社会人としてあの言い草はどうなのだろう。恋神を信じる社員に昼休憩を邪魔されても許せるのに、何故か彼相手だと気持ちが昂ってしまう。後悔したが、デスクに戻る頃には、やってしまったことは仕方ないと開き直った。どのみち彼には失恋の日に本性を見せている。いい人のフリをしたところで笑われるだけだ。仕事のできる人間のようだから、総務に連絡してくることもないだろう。もう関わることはない。
「田胡、帰ってきて早々悪いけど、四階の廊下の蛍光灯が切れそうだって電話があった。管理室に電話をしてもいいけど、時間が掛かりそうだったら俺が交換するから蛍光灯だけ出してくれ」
「ほんと? 助かる」
 経理部の男性に言われてすぐにいつもの自分に戻る。うっかり社内携帯を忘れて久宝のところに行っていたが、こうして他の部署の社員が対応してくれるのがありがたい。ありがたいから自分も神でいようと思う。ほら、大丈夫。久宝の前以外ではいつもの慈悲深い自分だ。
「俺、脚立持っていくから、都合のいいときに声掛けて」
「じゃあ、もう都合いいから行こうか」
 総務が一人で大変だからというだけでなく、一六四センチしかない嶺に難しそうな作業のときにも、同僚が気を遣って動いてくれる。執務室は問題ないが、廊下の天井は脚立に乗っても届かないからありがたい。
「ありがとう。脚立と蛍光灯を持ってくる」
 そう言って倉庫室に向かいながら、そういえば彼はとても背が高かったなと、不敵な医師のことを思い出していた。
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