好きになったのはあなたです。

 約束の十六時に席を立って、例によって企画部の社員に声を掛けた。
「いってらっしゃい。前情報がないけど、いい人だといいわね」
 今日も穏やかな声が返ってきて安堵する。どうやら嶺の不機嫌は表に出ていないらしい。
 今日ざっと説明して、明日一日かけて準備してもらって金曜から一般外来を始めてもらうことになっていた。明日は休診日の木曜だからちょうどいい。と思うが、千木良がいなくなった月末から休診でも問い合わせの一つもないのだから、金曜も外から患者が来ることはないだろう。ここに来る医師は社員の診察をして、たまに人材管理部のミーティングに参加してくれればそれでいいのだ。
 約束の五分前。ビルの外にタクシーがやってきた気配もないから遅れてくるだろう。それなら自分がクリニックの中で待っていようと思った。慣れたクリニックだから躊躇いもなく引き戸を引いて、待合室のソファーに向かう。だがそこで、同じタイミングで診察から男が出てきた。
「この間の白い顔の男か」
 侵入者に驚くこともなく不敵に笑って言う相手に、嶺も漸く思い出す。
「この間の……」
 茶色がかった髪に切れ長の目。すっと通った鼻筋に薄めの唇。嶺より二十センチ近く高いのではないかと思う長身。千木良に失恋した日に出会でくわした男だ。
「体調はよくなったか?」
「体調が悪いと言った覚えはありません」
 その話を出してくるから嶺の返しも不機嫌になる。
「それはよかった。俺は今日からここで働く久宝くぼう恭矢きょうやという。お前は?」
「総務の田胡たごといいます」
 刺のある言葉をさらりと躱されて負けた気がした。だが別に彼と密に関わることはない。着任の世話も数日で全て終わる。その後このクリニックに来なければいいだけのことだ。
「こちらがIDカードになります。お医者様が執務室に入ることはないでしょうが、休憩室やミーティングルームに入るときに必要になります。こちらが館内の注意事項で、これが人材管理部のスタッフ採用マニュアルです。医師の判断を仰ぐ場合もありますので、お手数ですがご一読……」
「ああ、それはいい」
「困ります。うちの方針を理解してもらわないと」
「そうじゃない。もう熟読して頭に入っている」
 人材管理部に医師は関係ないと言われた気がして反論したが、彼は逆のことを言った。
「熟読?」
「ああ。ここに来ることが決まってから、カナミセカンドスタッフの資料は全部読んだ。凄いな。医師にアドバイスを貰ってから派遣先や派遣期間を決めるんだろ? そこまで徹底した派遣会社は聞いたことがない」
「お褒めに与り光栄です」
 派遣会社の仕事になど関わりたくないと言ってごねた医師もいるが、この医師は協力的でよかった。
「ついでに館内の設備も見て回って頭に入っているから案内不要だ」
 なるほど。あの日はビル内を見に来ていたのか。嶺の手間が省けてありがたいことだ。
「ではもう俺の出番はありませんね。今後何かありましたら総務部まで内線で連絡をください」
「おい、待て」
 さっさと去ってしまおうとしたのを呼び止められる。
「何か?」
「随分噂と違うんだな」
「噂?」
 この男は苦手だから一刻も早く離れようと思うのに、そんな言い方をされれば聞かずにいられない。
「総務の田胡は仏様のように優しくて、どの部署の社員にも親切にする。そしてカナセカの恋神様だってな」
「……神なのか仏なのかはっきりしろという感じですね」
「お前、面白いな」
 奥二重の目が細められて、その顔に不覚にもドキリとした。嶺はぱっちりした二重より奥二重が好きだ。というより、今日会ってからずっと思っているが、彼の見た目がどストライクなのだ。見た目だけなら千木良以上だ。だがもうしばらく愛だの恋だの言いたくない。このクリニックの医師に惚れて、手痛い失恋をしたばかりだ。嶺は同性が好きだが、彼も同じ可能性は低い。あれほど嶺に優しくしておいて、常務の娘とと結婚していった千木良を思えば、もう二度と馬鹿な勘違いはしまいと思う。
「誰情報ですか?」
「それは言わないことにしようか。だが一人二人じゃない」
 何故複数の人間に嶺のことを聞くのだと思ったが、彼が嶺のことだけ聞いたとは言っていない。もしかしたら自分が関わりそうな人間は全部調べたのかもしれない。
「俺は噂のような人間じゃありませんよ。自分の仕事をスムーズに終えるために、一番都合のいい人格を演じているんです」
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