好きになったのはあなたです。
入り口まで見送りに来た彼が幸せそうに微笑んで言うのが憎らしい。
「……どういたしまして」
俺の名前は恋神ではなく田胡嶺だ。そんな本音はねじ伏せて、最後まで冷静さを保って引き戸を閉めたところで左腕に痛みが走る。
「下手なんだよ、採血」
可愛さ余って憎さ百倍、はちょっと違うかもしれないが、とにかくそんな気持ちだった。彼は嶺を便利な総務部員でも恋神でもなく、一人の人間として見てくれると思っていた。診察後のフリートークの時間を長く取ってくれるのも、気苦労の多い嶺を気遣ってくれているのだと。だがとんだ思い上がりだった。嶺と長くいたのは少しでも恋神と長くいて、その力を得るためだ。ただの噂だというのに、そんなものに縋っていた彼が滑稽に思える。恋神に頼らなければならない恋なら初めから諦めればいい。いや、彼は恋を成就させるのが目的ではなく、叶未製薬のお偉いと親戚になって今後の人生を上手く進めたかったのだ。きっと叶未総合病院の内科部長の椅子でも用意されているのだろう。採血が苦手なくせによく恥ずかしくもなく偉くなろうと思うものだ。そう心で悪口を言い続けながら、未だに彼のことが好きな自分が一番情けない。
彼がここに配属になってから、ずっと心の支えだった。二週に一度の診察が癒しの時間だった。仕事は好きだが、癒しを失えば、頼りになる総務部員兼カナセカの恋神を続けていく自信がない。そもそも嶺が恋神になりたいと言い出した訳ではないのに、何故自分の失恋まで誘導しているのだろう。もう意味が分からない。分からないが、哀しいし腹が立って腕が痛い。
「……!」
ボロボロの気持ちで早足でエレベーターに向かっていて、向こうからやってきた人物と接触してしまった。
「おっと」
後ろに転ぶ、と思った瞬間、相手が嶺の背に腕を回して支えてくれる。
「すみません!」
どう考えても物思いをしながら歩いていた自分が悪いと思ったから、腕から抜けて頭を下げた。
「いや、そこまでしなくても」
「本当にすみませんでした!」
「おい」
突っ込まれたくないから顔も見ずに立ち去ろうとしたのに、何故か腕を引いて止められる。
「……何か?」
振り向けばどこまでも冷静な顔に見つめられた。このビルで働く人間は記憶しているが、見たことのない顔だ。だが今はそれどころではないからどうでもいい。
「顔が白い。具合でも悪いのか?」
その言葉にそれまで溜まってきたものが一度に弾けた。
「重度の貧血なんです! どこも悪くありません!」
突っ込みどころ満載の言い方をして、ぽかんとする彼を残してエレベーターに向かって走った。五階に向かうエレベーターの中で、ただ心配してくれた人間にあの言い方はなかったと思うがもう遅い。
「あれ? 田胡さん、早かったですね」
デスクに戻ったところで、企画部の社員がのんびりと声を掛けてくれたことに救われた。
「はい。これからちょっと忙しくなりそうだと分かったので」
そうだ。何はともあれこのビルに異動者が来るなら総務部員として忙しくなる。IDカードと館内案内と念のため企業案内も準備しておこうか。自分はクリニックの医者だからと言って、カナミセカンドスタッフのことを一切勉強せずに来る者もいるのだ。この会社の特性上それは困る。
色々と考えていれば失恋の傷が少し楽になった。だが心の完治には時間が掛かりそうだし、もう次の恋はできないかもしれない。
「……自分が失恋する恋神か」
とにかくもう貧血の経過観察に行くのはやめよう。そう思った。
「……どういたしまして」
俺の名前は恋神ではなく田胡嶺だ。そんな本音はねじ伏せて、最後まで冷静さを保って引き戸を閉めたところで左腕に痛みが走る。
「下手なんだよ、採血」
可愛さ余って憎さ百倍、はちょっと違うかもしれないが、とにかくそんな気持ちだった。彼は嶺を便利な総務部員でも恋神でもなく、一人の人間として見てくれると思っていた。診察後のフリートークの時間を長く取ってくれるのも、気苦労の多い嶺を気遣ってくれているのだと。だがとんだ思い上がりだった。嶺と長くいたのは少しでも恋神と長くいて、その力を得るためだ。ただの噂だというのに、そんなものに縋っていた彼が滑稽に思える。恋神に頼らなければならない恋なら初めから諦めればいい。いや、彼は恋を成就させるのが目的ではなく、叶未製薬のお偉いと親戚になって今後の人生を上手く進めたかったのだ。きっと叶未総合病院の内科部長の椅子でも用意されているのだろう。採血が苦手なくせによく恥ずかしくもなく偉くなろうと思うものだ。そう心で悪口を言い続けながら、未だに彼のことが好きな自分が一番情けない。
彼がここに配属になってから、ずっと心の支えだった。二週に一度の診察が癒しの時間だった。仕事は好きだが、癒しを失えば、頼りになる総務部員兼カナセカの恋神を続けていく自信がない。そもそも嶺が恋神になりたいと言い出した訳ではないのに、何故自分の失恋まで誘導しているのだろう。もう意味が分からない。分からないが、哀しいし腹が立って腕が痛い。
「……!」
ボロボロの気持ちで早足でエレベーターに向かっていて、向こうからやってきた人物と接触してしまった。
「おっと」
後ろに転ぶ、と思った瞬間、相手が嶺の背に腕を回して支えてくれる。
「すみません!」
どう考えても物思いをしながら歩いていた自分が悪いと思ったから、腕から抜けて頭を下げた。
「いや、そこまでしなくても」
「本当にすみませんでした!」
「おい」
突っ込まれたくないから顔も見ずに立ち去ろうとしたのに、何故か腕を引いて止められる。
「……何か?」
振り向けばどこまでも冷静な顔に見つめられた。このビルで働く人間は記憶しているが、見たことのない顔だ。だが今はそれどころではないからどうでもいい。
「顔が白い。具合でも悪いのか?」
その言葉にそれまで溜まってきたものが一度に弾けた。
「重度の貧血なんです! どこも悪くありません!」
突っ込みどころ満載の言い方をして、ぽかんとする彼を残してエレベーターに向かって走った。五階に向かうエレベーターの中で、ただ心配してくれた人間にあの言い方はなかったと思うがもう遅い。
「あれ? 田胡さん、早かったですね」
デスクに戻ったところで、企画部の社員がのんびりと声を掛けてくれたことに救われた。
「はい。これからちょっと忙しくなりそうだと分かったので」
そうだ。何はともあれこのビルに異動者が来るなら総務部員として忙しくなる。IDカードと館内案内と念のため企業案内も準備しておこうか。自分はクリニックの医者だからと言って、カナミセカンドスタッフのことを一切勉強せずに来る者もいるのだ。この会社の特性上それは困る。
色々と考えていれば失恋の傷が少し楽になった。だが心の完治には時間が掛かりそうだし、もう次の恋はできないかもしれない。
「……自分が失恋する恋神か」
とにかくもう貧血の経過観察に行くのはやめよう。そう思った。