好きになったのはあなたです。
執拗に胸を弄られて体温が上がっていく。ずっと好きだった彼に触れられれば気持ちが昂る。身体はもっとと求めてしまいそうだ。
「ダメです……!」
だが辛うじて会社員の理性が勝った。クリニックの入口も診察室の引き戸も鍵をかけていない。こんなところを誰かに見つかれば処分されてしまう。特に千木良は重い処分になるだろう。医師が患者にこんなことをしていい訳がない。
「見つかったら大変……」
「真面目だね」
彼の肩を押して離れようとした嶺に、彼はそう言って笑った。
「意外に小心者なのかな? もう誰も来ないのに」
嶺の身体をもう一度壁に押しつけて、開けた首元に唇を寄せる。強く吸われるようにされて、嶺はぎゅっと目を閉じる。そのまま戯れのように衣服の上から股間に触れて、しばらく弄んだあと彼は嶺を解放してくれた。事のマズさに気づいた訳ではなく、ちょっと遊んで満足したという感じだった。穏やかで人のいい医師の意外な一面。
「さて、診察しようか。年一の健診の結果が出たんだよね」
そんな風にすぐに切り替えてしまう彼に、ああ、この恋は成就しないなと心のどこかで分かっていた。だが恋は冷静な判断を奪うものだ。あんな風に触れてきたのなら、少しは嶺に気があるのではないか。少なくても同性との関係に嫌悪感はない。恋人になれる可能性もあるのではないか。そう思って、その日のことを口に出さずに診察に通っていた自分が、今となっては途方もない馬鹿に思える。
診察室で患者に手を出す医師など医師ではない。他の社員に被害者が出ないように、裏から手を回して異動させるのが正解だ。それが社内を護る総務部員の仕事。主任にまでしてもらって何をしていたのだろう。だがそこはもう過ぎたことだから仕方ない。
では今、自分がこれほどダメージを受けているのは何故か。そこで思考が鏡の前で苦しむ現実に帰ってくる。もう千木良に未練はない。だがああして触れておきながら、同時進行の恋人がいたことが受け付けない。ライバルが沢山いたと言っていた。相手を吟味しなければならないお嬢様だから、何人かと並行して会っていたのかもしれない。だが四月が出産予定なら、嶺に触れた頃、千木良は既に彼女にも手を出していたことになる。それが生理的に受け付けない。何が恋神の力だ。ただのデキ婚ではないかと思って、彼への想いに振り回されてきた自分が惨めになる。いや、今日は朝から調子が悪かったのだ。これは決して彼のせいではない。
多分これは吐きたくても吐けないやつだと分かっているから、鏡の前のカウンターに手をついて呼吸を繰り返した。どうせみな会場で食事をしているだろうから、しばらく独占してもいいだろう。それにしても気分が悪い。
体調が戻るまで帰れないから困った。やはりこんなところに来るんじゃなかったと、どうしようもない気持ちになったところで、ふと背中に人の気配を感じた。邪魔になるから避けなければと顔を上げて、鏡に映ったものに驚く。
「今日は随分と調子が悪そうだな」
「先生……」
そこに久宝が立っていた。ダークグレーのスーツに白のシャツとシルバーのネクタイはオーソドックスだが、そこに青みがかったグレーのベストを合わせているのが憎らしい。ただでさえいい男が更にいい男に見える。うん。彼を素直にいい男と認めるなんて、自分は相当弱っている。
「飲みすぎてフラフラなのか、元想い人の婚約者に打ちのめされたのかどっちだ?」
会場にいたなら千木良のスピーチも聞いていた筈なのに、酷い言い方のフリで妊娠のことを言わないのは彼の高度な優しさだ。悔しいがありがたい。
「どっちも不正解です。朝からちょっと貧血気味なんですよ」
「貧血気味だと? お前は気味で済まない重度の貧血だろう?」
それはそうだと、なんだかおかしくなってくる。
「……とにかく気持ちが悪いんですよ。これじゃ電車で帰れないし。吐きはしないので放っておいてください」
「医者に病人を放っておけとは随分な言い草だな」
「俺は病人じゃ……」
「いいから、それを持ってついてこい」
どこで手に入れたのか、スポーツドリンクのペットボトルを手渡されて、空いた方の腕を引かれる。
「頭でも腹でも、冷やしてよくなるところを冷やしておけ」
言いながら、嶺を連れてあっさりパーティー会場を通り過ぎてしまう。
「俺、まだ千木良先生に挨拶していなくて」
「受付で名前を書いたなら充分だ」
「ダメです……!」
だが辛うじて会社員の理性が勝った。クリニックの入口も診察室の引き戸も鍵をかけていない。こんなところを誰かに見つかれば処分されてしまう。特に千木良は重い処分になるだろう。医師が患者にこんなことをしていい訳がない。
「見つかったら大変……」
「真面目だね」
彼の肩を押して離れようとした嶺に、彼はそう言って笑った。
「意外に小心者なのかな? もう誰も来ないのに」
嶺の身体をもう一度壁に押しつけて、開けた首元に唇を寄せる。強く吸われるようにされて、嶺はぎゅっと目を閉じる。そのまま戯れのように衣服の上から股間に触れて、しばらく弄んだあと彼は嶺を解放してくれた。事のマズさに気づいた訳ではなく、ちょっと遊んで満足したという感じだった。穏やかで人のいい医師の意外な一面。
「さて、診察しようか。年一の健診の結果が出たんだよね」
そんな風にすぐに切り替えてしまう彼に、ああ、この恋は成就しないなと心のどこかで分かっていた。だが恋は冷静な判断を奪うものだ。あんな風に触れてきたのなら、少しは嶺に気があるのではないか。少なくても同性との関係に嫌悪感はない。恋人になれる可能性もあるのではないか。そう思って、その日のことを口に出さずに診察に通っていた自分が、今となっては途方もない馬鹿に思える。
診察室で患者に手を出す医師など医師ではない。他の社員に被害者が出ないように、裏から手を回して異動させるのが正解だ。それが社内を護る総務部員の仕事。主任にまでしてもらって何をしていたのだろう。だがそこはもう過ぎたことだから仕方ない。
では今、自分がこれほどダメージを受けているのは何故か。そこで思考が鏡の前で苦しむ現実に帰ってくる。もう千木良に未練はない。だがああして触れておきながら、同時進行の恋人がいたことが受け付けない。ライバルが沢山いたと言っていた。相手を吟味しなければならないお嬢様だから、何人かと並行して会っていたのかもしれない。だが四月が出産予定なら、嶺に触れた頃、千木良は既に彼女にも手を出していたことになる。それが生理的に受け付けない。何が恋神の力だ。ただのデキ婚ではないかと思って、彼への想いに振り回されてきた自分が惨めになる。いや、今日は朝から調子が悪かったのだ。これは決して彼のせいではない。
多分これは吐きたくても吐けないやつだと分かっているから、鏡の前のカウンターに手をついて呼吸を繰り返した。どうせみな会場で食事をしているだろうから、しばらく独占してもいいだろう。それにしても気分が悪い。
体調が戻るまで帰れないから困った。やはりこんなところに来るんじゃなかったと、どうしようもない気持ちになったところで、ふと背中に人の気配を感じた。邪魔になるから避けなければと顔を上げて、鏡に映ったものに驚く。
「今日は随分と調子が悪そうだな」
「先生……」
そこに久宝が立っていた。ダークグレーのスーツに白のシャツとシルバーのネクタイはオーソドックスだが、そこに青みがかったグレーのベストを合わせているのが憎らしい。ただでさえいい男が更にいい男に見える。うん。彼を素直にいい男と認めるなんて、自分は相当弱っている。
「飲みすぎてフラフラなのか、元想い人の婚約者に打ちのめされたのかどっちだ?」
会場にいたなら千木良のスピーチも聞いていた筈なのに、酷い言い方のフリで妊娠のことを言わないのは彼の高度な優しさだ。悔しいがありがたい。
「どっちも不正解です。朝からちょっと貧血気味なんですよ」
「貧血気味だと? お前は気味で済まない重度の貧血だろう?」
それはそうだと、なんだかおかしくなってくる。
「……とにかく気持ちが悪いんですよ。これじゃ電車で帰れないし。吐きはしないので放っておいてください」
「医者に病人を放っておけとは随分な言い草だな」
「俺は病人じゃ……」
「いいから、それを持ってついてこい」
どこで手に入れたのか、スポーツドリンクのペットボトルを手渡されて、空いた方の腕を引かれる。
「頭でも腹でも、冷やしてよくなるところを冷やしておけ」
言いながら、嶺を連れてあっさりパーティー会場を通り過ぎてしまう。
「俺、まだ千木良先生に挨拶していなくて」
「受付で名前を書いたなら充分だ」