好きになったのはあなたです。
「はい。胸焼けや吐き気が出てしまうので。でも本当にどこも悪くなくて、フラフラしたりもしないんですよ」
強がりではなく事実だった。では何故きちんと二週に一度経過観察に通っているかと言えば、千木良に会いたいからだ。総務部の仕事を一人で熟しながら恋神なんて役割まで背負っているのだ。恋する男と二人きりで話す時間くらい必要だ。
「じゃあ、一応今回も検査しておくね。前回右だったから左がいいかな」
「先生の好きな方で」
採血用の腕枕に左右の腕を乗せる。嶺は血管が細くて採血しづらいから、千木良に採血しやすい方を選んでもらう。彼が嶺の肌を押したり擦ったりしながら血管を探す時間。恋する人間にとってはドキドキと幸せな時間だ。
「うん。やっぱり今日は左にしよう」
言われて右を下ろせば、左を駆血帯で縛った彼が採血を始める。
「針を見ていなくていいよ?」
「いえ。俺はこういうの平気ですから」
「あ、ごめん。中でちょっと針動かすね」
「どうぞ」
千木良はいい医師だが採血があまり得意ではない。針を刺してから皮膚の中で血管を探されるなんてことも一度や二度ではないが、彼ならたいした問題ではない。寧ろ彼にも不器用なところがあるのだと愛おしく見えてしまう。
「……はい、終わり。ごめんね、痛かったでしょう?」
「いえ」
痛いに決まっているが、あなたが相手なら脳内麻薬が出るから平気ですと、クールな受け答えに反して頭の中はお花畑だ。この小さなクリニックに検体検査の設備まではないので、外注企業に回して検査結果を送ってもらう。もちろんその外注先も叶未製薬傘下の会社だ。という訳で、またその結果を聞くために二週間後に会える。そう思っていたのに、検査器具を片付けた彼が意外なことを言い出した。
「ちょっと急なんだけど、今日で僕が田胡さんを診るのは最後なんだ」
「え……」
突然の言葉に、彼を好きでないフリを忘れてしまう。
「ごめんね。後任が決まらないようなら十月までって話だったんだけど、急遽後任が決まってバタバタと退職することになって」
「退職?」
「そうなんだ」
そこで何を思ったか、彼が嶺の両手をぎゅっと握る。
「田胡さんにはお礼を言わなきゃって思っていたんだ」
「……なんの話でしょう?」
「謙遜しなくていいよ。田胡さんはカナセカの恋神でしょう?」
そこで漸く話の流れが見えてくる。
「叶未製薬の常務の娘と結婚が決まったんだ」
やはり。がくりと倒れてしまいそうな身体をキープして、聞き続けるしかないのが辛いところだ。
「常務の娘というだけでなく綺麗な人だから、ライバルがとても多くてね。でも田胡さんのお陰で僕が選ばれた。ありがとう。こんな風に恋神様を独り占めできて、僕は幸運だったよ」
おい、それはつまり、丁寧に診察してくれたのも個人的な悩みを聞いてくれたのも、自分の望みを叶えるためか? 野心丸出しの結婚ならせめて相手の気持ちくらい自分で掴みにいけよ。何が恋神だ。医者はそういう非科学的なことが嫌いなんじゃないのか。いくつも言葉が渦巻くが、ここで彼を罵ったところで却って惨めになるだけだ。
「おめでとうございます。どうぞお幸せに」
「ありがとう。結婚式は叶未製薬の関係者が多くなるから呼べないんだけど、この会社の人たちを招待する婚約披露パーティーをやろうと思っているから、ぜひ参加して」
誰が行くか。
「では俺はこれで」
「うん。十月から僕の一つ下の先生が来るらしいから、彼とも仲よくしてね」
いや、もうここには来ないから関係ない。というかもう九月の最後の金曜日だ。このビルの館内案内やIDカードの準備は総務部の仕事になるのに、何故誰も教えてくれなかったのだ。ああ、そうだ、急遽決まったと言っていた。だがそれにしたって、異動者がいる場合該当部署より先に総務に報告しろといつも言っているじゃないかと、カナセカの役席にまで怒りを覚えながら、なんとか静かな顔で診察スペースを離れる。
「ありがとう、恋神様」
強がりではなく事実だった。では何故きちんと二週に一度経過観察に通っているかと言えば、千木良に会いたいからだ。総務部の仕事を一人で熟しながら恋神なんて役割まで背負っているのだ。恋する男と二人きりで話す時間くらい必要だ。
「じゃあ、一応今回も検査しておくね。前回右だったから左がいいかな」
「先生の好きな方で」
採血用の腕枕に左右の腕を乗せる。嶺は血管が細くて採血しづらいから、千木良に採血しやすい方を選んでもらう。彼が嶺の肌を押したり擦ったりしながら血管を探す時間。恋する人間にとってはドキドキと幸せな時間だ。
「うん。やっぱり今日は左にしよう」
言われて右を下ろせば、左を駆血帯で縛った彼が採血を始める。
「針を見ていなくていいよ?」
「いえ。俺はこういうの平気ですから」
「あ、ごめん。中でちょっと針動かすね」
「どうぞ」
千木良はいい医師だが採血があまり得意ではない。針を刺してから皮膚の中で血管を探されるなんてことも一度や二度ではないが、彼ならたいした問題ではない。寧ろ彼にも不器用なところがあるのだと愛おしく見えてしまう。
「……はい、終わり。ごめんね、痛かったでしょう?」
「いえ」
痛いに決まっているが、あなたが相手なら脳内麻薬が出るから平気ですと、クールな受け答えに反して頭の中はお花畑だ。この小さなクリニックに検体検査の設備まではないので、外注企業に回して検査結果を送ってもらう。もちろんその外注先も叶未製薬傘下の会社だ。という訳で、またその結果を聞くために二週間後に会える。そう思っていたのに、検査器具を片付けた彼が意外なことを言い出した。
「ちょっと急なんだけど、今日で僕が田胡さんを診るのは最後なんだ」
「え……」
突然の言葉に、彼を好きでないフリを忘れてしまう。
「ごめんね。後任が決まらないようなら十月までって話だったんだけど、急遽後任が決まってバタバタと退職することになって」
「退職?」
「そうなんだ」
そこで何を思ったか、彼が嶺の両手をぎゅっと握る。
「田胡さんにはお礼を言わなきゃって思っていたんだ」
「……なんの話でしょう?」
「謙遜しなくていいよ。田胡さんはカナセカの恋神でしょう?」
そこで漸く話の流れが見えてくる。
「叶未製薬の常務の娘と結婚が決まったんだ」
やはり。がくりと倒れてしまいそうな身体をキープして、聞き続けるしかないのが辛いところだ。
「常務の娘というだけでなく綺麗な人だから、ライバルがとても多くてね。でも田胡さんのお陰で僕が選ばれた。ありがとう。こんな風に恋神様を独り占めできて、僕は幸運だったよ」
おい、それはつまり、丁寧に診察してくれたのも個人的な悩みを聞いてくれたのも、自分の望みを叶えるためか? 野心丸出しの結婚ならせめて相手の気持ちくらい自分で掴みにいけよ。何が恋神だ。医者はそういう非科学的なことが嫌いなんじゃないのか。いくつも言葉が渦巻くが、ここで彼を罵ったところで却って惨めになるだけだ。
「おめでとうございます。どうぞお幸せに」
「ありがとう。結婚式は叶未製薬の関係者が多くなるから呼べないんだけど、この会社の人たちを招待する婚約披露パーティーをやろうと思っているから、ぜひ参加して」
誰が行くか。
「では俺はこれで」
「うん。十月から僕の一つ下の先生が来るらしいから、彼とも仲よくしてね」
いや、もうここには来ないから関係ない。というかもう九月の最後の金曜日だ。このビルの館内案内やIDカードの準備は総務部の仕事になるのに、何故誰も教えてくれなかったのだ。ああ、そうだ、急遽決まったと言っていた。だがそれにしたって、異動者がいる場合該当部署より先に総務に報告しろといつも言っているじゃないかと、カナセカの役席にまで怒りを覚えながら、なんとか静かな顔で診察スペースを離れる。
「ありがとう、恋神様」