好きになったのはあなたです。

 恋神の噂は消えるどころか盛り上がった。件の女性社員は嶺の想像通り失恋したのだが、その彼が前科のある詐欺師だったと分かったのだ。
「恋神様が危険な男から遠ざけてくれた」
 彼女がそんな風に言って回ったものだから、恋神は恋を成就させる力だけでなく、悪縁を払う力まで持ってしまった。もちろん嶺にそんな能力はない。恋の成就に失敗して引退する筈が、更に厄介なことになっている。みな気の持ちようだし、本人がどうしたいかなんて、言動をよく観察すれば分かるというだけなのだ。だが噂が消えないのだから仕方がない。きっとこれもブラック企業から真っ白を通り越して透明な会社に転職できた代償なのだ。それでカナセカの社員が気持ちよく過ごせるのなら、もう少し恋神を続ければいい。それに久宝の恋の件もある。
 頻繁に採血しなくてよくなったというのに、嶺はあれからちょくちょくクリニックに顔を出すようになった。嶺がロッカー室に自分のロッカーがないと言ったら、久宝がクリニックのロッカーを使えばいいと言ってくれたのだ。
 久宝はよく気がつく男で、ついでに暇だから館内の様子をよく観察していた。それで週明けの朝に、「電子血圧計用の電池が欲しい」と総務に電話してきたのだ。クリニックのものなら久宝が勝手に発注してもいいのだが、館内放送を使わず電話してきたことに免じて持っていってやろう。そう思って電池を多めに持っていけば、彼が意外なことを言い出した。
「四階のロッカー室の血圧計の電池が切れていた。せっかくそこそこ性能のいい血圧計なのにもったいないと思ってな」
 医師はクリニックに私物を置くからロッカー室は使わないのに、どうやらこのビルの設備をくまなくチェックしていたらしい。医療系グループだからなんとなくロッカー室に置いてあるだけの血圧計なんて誰も気にしないのに、電池まで確認してくれたのがありがたい。
「すみません、気づかなくて。俺、ロッカーがないからほとんどロッカー室に行かなくて。そういうことなら俺が電池を換えておきます」
「いや、いい。なんでも総務に頼む気はないんだ。総務が一人って馬鹿みたいな配置だしな。それより社員なのにロッカーがないってどういうことだ?」
 馬鹿みたいな配置、のところに笑ってしまいながら、隠すことでもないので有りの侭を答える。
「今年度の新入社員が入ったとき、男性社員が多くてロッカーが足りなくなったんです。嘱託社員さんに別の部屋のロッカーに移動してもらったりしたんですけど、それでもどうしても一つ足りなくて、わざわざロッカーを一つ発注するのもどうかと思ったので、俺が譲ったんです。来年度の社員の出入りによってはまた考えますけど」
「ふーん。優しいな」
 褒められたのか皮肉なのか分からない言い方だった。だがそれまで誰にも気づかれなかった総務の気遣いをクローズアップしてもらえて密かに嬉しい。
「そういうことならここのロッカーを使えばいい。医師一人、パートの看護師一人なのに、やけに沢山ロッカーがあるし」
 頭の回転が速い彼はすぐにそんな提案をしてきた。
「いや、でも」
「置いておきたい本とか着替えとかあるだろ? 俺がいるうちは使い続けていいから遠慮するな」
 そう言われれば頑なに断る理由もない。ありがたく厚意を受けることにした。久宝はどうやら嶺が頻繁に来ても煩わしいとは思わないらしい。いや、これも少しでも多く恋神と接するための手段なのか。そう思えば、恋に必死な彼が可愛いと思えてしまう。
「電池の交換は俺があとでしておくから、一度ここに座れ。もう採血はしないけど、代わりに血圧を測ってやる」
 そう言ってクリニックの血圧計を出してくるから、笑顔で辞退する。
「今日は診察ではなく電池を持ってきただけですし、まだ仕事がありますので」
「自分で四階に電池を換えに行くつもりだったんだろ? それがなくなったんだから時間はある筈だ」
 ああ言えばこう言う男だ。だが言い争っていても余計な時間を消費するだけだ。そう思って丸椅子に座って素直に右腕を出す。圧迫して測るタイプの血圧計に腕を預けながら、どうか少しでも上がってくれと心で祈ってみる。
「……87-50だと?」
 だが祈り空しく血圧計はいつもの数値を正確に表示した。
「お前、血圧まで死んでいるのか?」
 医者がその言い草はないだろうと思うが、言われても仕方のない数値なのは自覚していた。嶺は重度の貧血だけでなく低血圧なのだ。
「朝だからちょっと調子が悪くて」
「血圧に調子のいい悪いがあるか」
「高血圧は身体に毒って言いますけど、低血圧はそれほど問題ではないし」
「お前そのうち倒れるぞ」
「まぁまぁ先生、興奮すると血圧が上がりますから」
「黙れ」
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