好きになったのはあなたです。

 言葉のニュアンスから感じ取ったことを言ってみれば、彼女が驚きに目を見開く。
「そうです。もう一年一緒に暮らしていて、私はいずれ結婚したいと思っていて」
「そっか。それならまず今日の仕事をきちんと終わらせて家に帰ること。それから彼とじかに向き合って話すこと。彼がもうその部屋にいなかった場合は諦めること。俺に言えるのはその三つかな。弱い気持ちでぶつかっても躱されるだけだから、しっかりしないと」
 言いながら、恋神の噂もここまでかなと思った。彼女はきっと失恋する。週明け、どうしてくれるのだと罵られるかもしれないが、それは甘んじて受け入れよう。彼女が恋神の失敗を広めてくれれば、嶺に頼みに来る社員もいなくなる。
「ありがとうございました。仕事に戻ります」
 一旦落ち着いた彼女が帰っていく姿に、とりあえず安堵した。同棲までしていたなら別れるのは大変だろう。気持ちの問題はもちろんだが、引越しなどの現実的な問題もある。カナセカの給料で引越しの出費は可哀そうだと考えて、そこで漸くここがクリニックだったと思い出す。
「終わったんなら戻ってこい」
 半端に戸が開いたままの診察室から手招きされて、気まずさを抱えて戻ることになった。
「凄いな。恋神だっけ? このクリニックより余程需要がありそうだ」
 カナセカのことをよく勉強している彼は、知らなくていい恋神のことまで知っている。
「そのお役目ももう終わりそうです」
「そうなのか? 胃潰瘍によくないから無理はしてほしくないけど……って、それより連絡先」
 話が中断しても彼は忘れてくれなかった。これはもう仕方がないかと諦めて、足元の籠に置いてあった鞄からスマホを取り出す。そこで一つ思いついた。
「そうだ、先生。方眼塗り絵っていうアプリゲームを知っていますか?」
 悪足掻きだが、ゲームに気を逸らして連絡先のことを忘れてくれないかと思った。どうしてもというならゲーム内のDMでやりとりしてもいい。それなら通知が来ないから、生活の邪魔にならない。
「地味なゲームなんですけど結構嵌るし、癒されるんですよ」
 久宝がこんな地味なゲームを知っている筈がないと思いながら説明した。
「ああ、分かる。地味すぎて逆に新鮮なゲームだよな」
 だが彼からは意外な答えが返ってくる。
「お前もプレイしていたとは奇遇だな。俺が唯一やっているゲームだ」
「あ、そうなんですね」
 思いがけない反応にぽかんとしてしまった。久宝のように高速でなんでも処理してしまう人間が、ちまちまとマス目を塗っていくだけのゲームに興じる姿が想像できない。だが彼もプレイヤーならやはりゲーム内のDMでやりとりすればいい。
「じゃあ連絡先は方眼塗り絵のDMで……」
 だがそこで何かにハッとする彼の表情に気づいた。
「田胡、田胡嶺……って、お前もしかしてタゴレイか?」
「え?」
 確かにそうだが、何故嶺のプレイヤーネームを知っているのだ。そこで嶺の方もハッとする。久宝。クボウ。やたら頭がよくて、パワーが貰える難解クイズにいくつも正解してしまえる、ランキング一位のクボウ。
「もしかして先生ってクボウですか? レベル403の」
「ああ。レベルは今日404になったが俺がクボウだ」
 こんな偶然があるものなのかと感動してしまった。いつも絵を眺めて、その無駄のなさと圧倒的な賢さに憧れていたクボウが目の前にいる。
「ずっとクボウの絵を眺めてきたんです」
「俺もタゴレイの絵が好きで、いつも眺めていた」
 そこで、ん? と首を傾げる。クボウはランキング一位だからプレイヤーがみな絵を見に行くが、レベル60でランク外のタゴレイの絵は、意識して探さないと見にいけない。それを何故久宝が目にしていたのだろう。
「ずっとこんな絵を完成させるタゴレイに会ってみたいと思っていたんだ。前職を辞めたときも、だいぶ救われてな」
 嶺の疑問を余所に、彼は何やら感慨深げに頷いている。
「お前に頼みたいことがある」
 かと思えばきちんと座り直して、珍しく真摯な顔を向けてきた。
「なんでしょう?」
 話の流れが読めない嶺に、女性ならくらりときそうな微笑みで言う。
「お前を独り占めしたい」
「……は?」
「俺のものになってほしい」
 それが人を口説くときの切り札なのか、惚れ惚れするような微笑みと丁寧な口調で言われて、何も考えずにはいと言ってしまいそうになった。だがもちろん、こんな意味不明の状況ではいと言う訳にはいかない。
「一体、何を仰っているのでしょう?」
「分からない奴だな。こんな簡単なことはないだろ?」
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