好きになったのはあなたです。
嶺の願いに反して、久宝のクリニックに診察予約が入ることはなかった。戸伏の件の翌週から、久宝の女性問題の噂が広がり出したのだ。多分、戸伏をクリニックに運ぶとき初めて久宝の姿を見た社員が、高身長でイケメンの医師というイメージだけ持ち帰ったのだろう。そこから、あんなイケメンなら女性問題を起こしても不思議ではないと話が広がるのだから、噂というものは厄介だ。ついでに一般外来の患者も皆無だった。午前中だけ来てくれる看護師兼受付のパートさんは、三時間掃除と消毒をして帰っていく。
という訳で約束の月末、久宝は嶺のために二時間丸々使えると言った。ありがたくないが、診察室にぽつんと座る彼を想像すれば可哀そうな気もするので、開き直って二時間サボるつもりで仕事を片付けてきた。
「BUN値で胃潰瘍は予測できたけど、まさか脱水まであったとはな」
「俺もびっくりでした」
二人で診察室で向き合って、総合病院で貰った検査結果にああでもないこうでもないと言っている。
「でも病的な脱水じゃなく生活習慣の問題みたいですよ。考えてみれば俺、水分を摂るのが苦手なんですよね。バランスバーを水なしで平気で食べるタイプだし、好んで摂る水分といったらオレンジジュースだし」
「なんだ、その食生活は。だから貧血なんだよ。いいか? 胃潰瘍がよくなっても貧血が劇的によくなる訳じゃないぞ? 貧血は貧血でお前の持病だ」
「分かっていますよ。いきなり医者みたいなことを言わないでくださいよ」
「医者だっての」
彼の実力を認めたあとだからこそのやりとりが楽しい。嶺の方も既に素を晒しているから、いい人のフリをしなくていいのが楽でいい。そういえば胃潰瘍の治療にはメンタルケアも必要だと聞いた。久宝がこれからも暇なようなら、以前と同じように二週に一度ここに通おうかと思って、いや、その仮定は彼に失礼かと思い直す。
「戸伏の件のお礼に、今度飯でも行くか? お前、お菓子とジュース以外に好きな食べものはなんだ?」
「イカと蓮根ですかね」
「食材で答えるなよ。……ったくお前は」
そこで堪りかねたというように彼が笑い出した。
「お前、面白いな」
「そうですか? 穏やかで面倒見のいい神と言われたことはありますけど、面白いは初めて言われました」
「そういうとこだよ」
一頻り笑ったあと、彼が少し考えるような仕種を見せる。
「生ものがダメじゃないなら、寿司と凝った料理を出す和食屋にするか。いくつかいい店を知っている」
「えっと」
どうやら食事に行くというのが本気らしくて焦った。彼と二人で職場以外で会って、何を話せというのだ。
「すみません。俺、あまりお金がなくて」
本当はしっかり預貯金があるが、許される嘘だろう。だが彼は心外だというように片眉を上げる。
「俺が払うに決まっているだろ? カナセカの社員の給料くらい知っている」
「う……」
同じ男性として、給料を把握されるのは気まずい。だが年上の医師と比べても仕方がないだろうと開き直る。
「分かりました。機会があればぜひ」
「じゃあ連絡先を」
「あ、えっと」
職場の人間とプライベートの連絡先を交換するのは好きではなかった。総務部員が一人のこともあって、「何かあれば緊急連絡先に電話をください」で通している。方眼塗り絵に癒されて過ごすプライベートタイムに入り込まれるのが嫌なのだ。相手が久宝なら、それこそ食事指導のラインでも来そうで更に気が進まない。
「どうした?」
さぁ、どう躱そうか。そもそも食事自体なぁなぁにして誤魔化そうとしているが、それが通じる相手ではない。そこで天の助けのように、コンコンと診察室の戸がノックされる。
「はい」
自分も神なのに天の助けとはおかしな話だが、とにかく待ちに待った患者かもしれないと、何故か嶺が立ち上がって迎えに行く。
「あの、私……」
だがそこに立っていたのは今にも泣き出しそうな若い女性社員だった。これは残念ながら久宝の患者ではない。嶺の依頼者だ。
「すみません。午後の休憩で田胡さんを探したんですけど見つからなくて、五階の人に聞いたらクリニックに行っていると言われて」
だとしても今は一応勤務時間で、雑談していたとはいえ嶺は診察中だ。マナー違反だと思うが、そういうものが全部分からなくなるのが恋なのだろう。だからここは恋神になってやろうと思う。
「さっき、彼から別れようってラインが入って。私もうどうしていいか分からなくて」
「一緒に暮らしている恋人かな?」
という訳で約束の月末、久宝は嶺のために二時間丸々使えると言った。ありがたくないが、診察室にぽつんと座る彼を想像すれば可哀そうな気もするので、開き直って二時間サボるつもりで仕事を片付けてきた。
「BUN値で胃潰瘍は予測できたけど、まさか脱水まであったとはな」
「俺もびっくりでした」
二人で診察室で向き合って、総合病院で貰った検査結果にああでもないこうでもないと言っている。
「でも病的な脱水じゃなく生活習慣の問題みたいですよ。考えてみれば俺、水分を摂るのが苦手なんですよね。バランスバーを水なしで平気で食べるタイプだし、好んで摂る水分といったらオレンジジュースだし」
「なんだ、その食生活は。だから貧血なんだよ。いいか? 胃潰瘍がよくなっても貧血が劇的によくなる訳じゃないぞ? 貧血は貧血でお前の持病だ」
「分かっていますよ。いきなり医者みたいなことを言わないでくださいよ」
「医者だっての」
彼の実力を認めたあとだからこそのやりとりが楽しい。嶺の方も既に素を晒しているから、いい人のフリをしなくていいのが楽でいい。そういえば胃潰瘍の治療にはメンタルケアも必要だと聞いた。久宝がこれからも暇なようなら、以前と同じように二週に一度ここに通おうかと思って、いや、その仮定は彼に失礼かと思い直す。
「戸伏の件のお礼に、今度飯でも行くか? お前、お菓子とジュース以外に好きな食べものはなんだ?」
「イカと蓮根ですかね」
「食材で答えるなよ。……ったくお前は」
そこで堪りかねたというように彼が笑い出した。
「お前、面白いな」
「そうですか? 穏やかで面倒見のいい神と言われたことはありますけど、面白いは初めて言われました」
「そういうとこだよ」
一頻り笑ったあと、彼が少し考えるような仕種を見せる。
「生ものがダメじゃないなら、寿司と凝った料理を出す和食屋にするか。いくつかいい店を知っている」
「えっと」
どうやら食事に行くというのが本気らしくて焦った。彼と二人で職場以外で会って、何を話せというのだ。
「すみません。俺、あまりお金がなくて」
本当はしっかり預貯金があるが、許される嘘だろう。だが彼は心外だというように片眉を上げる。
「俺が払うに決まっているだろ? カナセカの社員の給料くらい知っている」
「う……」
同じ男性として、給料を把握されるのは気まずい。だが年上の医師と比べても仕方がないだろうと開き直る。
「分かりました。機会があればぜひ」
「じゃあ連絡先を」
「あ、えっと」
職場の人間とプライベートの連絡先を交換するのは好きではなかった。総務部員が一人のこともあって、「何かあれば緊急連絡先に電話をください」で通している。方眼塗り絵に癒されて過ごすプライベートタイムに入り込まれるのが嫌なのだ。相手が久宝なら、それこそ食事指導のラインでも来そうで更に気が進まない。
「どうした?」
さぁ、どう躱そうか。そもそも食事自体なぁなぁにして誤魔化そうとしているが、それが通じる相手ではない。そこで天の助けのように、コンコンと診察室の戸がノックされる。
「はい」
自分も神なのに天の助けとはおかしな話だが、とにかく待ちに待った患者かもしれないと、何故か嶺が立ち上がって迎えに行く。
「あの、私……」
だがそこに立っていたのは今にも泣き出しそうな若い女性社員だった。これは残念ながら久宝の患者ではない。嶺の依頼者だ。
「すみません。午後の休憩で田胡さんを探したんですけど見つからなくて、五階の人に聞いたらクリニックに行っていると言われて」
だとしても今は一応勤務時間で、雑談していたとはいえ嶺は診察中だ。マナー違反だと思うが、そういうものが全部分からなくなるのが恋なのだろう。だからここは恋神になってやろうと思う。
「さっき、彼から別れようってラインが入って。私もうどうしていいか分からなくて」
「一緒に暮らしている恋人かな?」