好きになったのはあなたです。
よかった。カナセカでどれだけ久宝の悪い噂が広がっているのか知らないが、一人は呪縛から解放してやれた。浜野が診察に行って久宝の高評価を持ち帰ってくれれば、そこから彼のイメージもよくなっていく。非常識な彼でも、浜野のような可愛らしいタイプにきつい言い方をすることはないだろう。
「っと、俺はそろそろ戻らないと」
「じゃあ、僕も」
そう言って二人でスツールを降りたところで、突然休憩室の外が騒がしくなった。
「なんでしょう?」
「ね」
二人で出てみれば、廊下の壁に寄りかかって若い男性社員が気を失っている。
「戸伏 さん!」
彼だと分かった瞬間すぐにピンときた。戸伏 祐矢 、二四歳。営業部二年目の社員で、彼も例によってハンデを持った社員の一人だ。
「戸伏さん」
彼を囲むように立っていた他の社員の間を抜けて、しゃがみ込んで声を掛ける。
「戸伏さん、分かる? 総務の田胡だよ」
そう言えば青い顔で細かく震えていた彼が僅かに頷いた。
「インスリンを打ったままご飯を食べる暇がなかったかな?」
聞けば彼がまた頷く。思った通り低血糖だ。そこではっと思い出してポケットに手を入れた。恋神に頼みに来た社員に貰った飴が入っている。なんていいタイミング。自分は本当に神なのではないかと思えてくる。
「戸伏さん、とりあえずこれ舐めて」
飴の袋を開けて差し出してやれば、彼が素直に口に入れた。これで一安心。だが低血糖の人間に糖分を与えることまでは知っていても、その後どう運べばいいか分からない。下手に動かして飴を喉に詰まらせてもいけない。こんなときは素直に本職に聞くのがいい。
「あ、久宝先生、田胡です」
「ああ、分かる。なんだ?」
スマホでクリニックに電話すれば、ワンコールで出てくれただけでなく、嶺の声を聞き分けてくれた。どうやら彼は耳までいいらしい。
「1型糖尿病のインスリン接種後の低血糖を起こした社員がいます」
わざと『1型』の部分を大きくしたのは、以前2型と誤解されて嫌な思いをしたことがあると聞いたことがあるからだ。
「飴を与えましたが、その後クリニックまで運ぶ方法が分からないので来ていただけると助かります」
「分かった。車椅子を持っていく。どこだ?」
「四階南廊下です。休憩室側」
「了解」
ありがたいことに久宝は素人の説明でも的確に状況を掴んでくれた。なるほど、車椅子ねと思う嶺の周りから、安堵した社員が一人、二人と去っていく。
「浜野くんも戻らないといけないなら戻っていいよ」
「いえ。僕も手伝えることがあるかもしれないので」
残される嶺を気の毒だと思ったのか、そう言ってくれる浜野の気遣いがありがたかった。飴を口に入れたまま意識を失わないように、二人で戸伏に話しかけながら待つ。
「おい、大丈夫か?」
程なく久宝がやってきて、嶺もそこで漸く安堵した。白衣の白には人の心を落ち着かせる力があるのかもしれない。
「戸伏祐矢さん、二四歳。1型糖尿病で一時間前にインスリンを打ったそうです」
久宝が脈を診るのを待ってから伝えれば、助かる、と珍しく普通の言葉が返ってくる。
「一時間前ならそれは辛いな。インスリンの種類は分かるか?」
「……スマホがあれば。……執務室に」
「僕、戸伏さんのデスクから探してきます」
そう言って浜野が駆けていったから、車椅子を押す久宝と共にクリニックまで行くことにした。嶺がいても回復の役には立たないが、何か営業部に伝言があるようなら伝えに行くことはできる。
幸いクリニックでブドウ糖を与えられた彼は震えも治まり、診察室の隣の部屋のベッドで安静にしていることになった。叶未製薬製ブドウ糖。流石にそこは抜かりがないと、どうでもいいところに感心している嶺も、そろそろ用済みだろう。
「戸伏さん、ご家族に連絡はしなくていいのかな?」
「……大丈夫です」
「じゃあ、俺は戻るけど、営業部の人に伝言はある?」
「今日の夕方必要な書類がデスクの水色のバインダーに入っているって」
「分かった。伝えておく。……じゃあ先生、あとはお願いします」
そう言って去ろうとした嶺に、何故か久宝がついてくる。
「報告が的確で助かったよ。感謝する」
改めて礼を言われて瞬いてしまう。
「お役に立てたのならよかった」
「お前もしかして、社員全員の持病が頭に入っているのか?」
「っと、俺はそろそろ戻らないと」
「じゃあ、僕も」
そう言って二人でスツールを降りたところで、突然休憩室の外が騒がしくなった。
「なんでしょう?」
「ね」
二人で出てみれば、廊下の壁に寄りかかって若い男性社員が気を失っている。
「
彼だと分かった瞬間すぐにピンときた。
「戸伏さん」
彼を囲むように立っていた他の社員の間を抜けて、しゃがみ込んで声を掛ける。
「戸伏さん、分かる? 総務の田胡だよ」
そう言えば青い顔で細かく震えていた彼が僅かに頷いた。
「インスリンを打ったままご飯を食べる暇がなかったかな?」
聞けば彼がまた頷く。思った通り低血糖だ。そこではっと思い出してポケットに手を入れた。恋神に頼みに来た社員に貰った飴が入っている。なんていいタイミング。自分は本当に神なのではないかと思えてくる。
「戸伏さん、とりあえずこれ舐めて」
飴の袋を開けて差し出してやれば、彼が素直に口に入れた。これで一安心。だが低血糖の人間に糖分を与えることまでは知っていても、その後どう運べばいいか分からない。下手に動かして飴を喉に詰まらせてもいけない。こんなときは素直に本職に聞くのがいい。
「あ、久宝先生、田胡です」
「ああ、分かる。なんだ?」
スマホでクリニックに電話すれば、ワンコールで出てくれただけでなく、嶺の声を聞き分けてくれた。どうやら彼は耳までいいらしい。
「1型糖尿病のインスリン接種後の低血糖を起こした社員がいます」
わざと『1型』の部分を大きくしたのは、以前2型と誤解されて嫌な思いをしたことがあると聞いたことがあるからだ。
「飴を与えましたが、その後クリニックまで運ぶ方法が分からないので来ていただけると助かります」
「分かった。車椅子を持っていく。どこだ?」
「四階南廊下です。休憩室側」
「了解」
ありがたいことに久宝は素人の説明でも的確に状況を掴んでくれた。なるほど、車椅子ねと思う嶺の周りから、安堵した社員が一人、二人と去っていく。
「浜野くんも戻らないといけないなら戻っていいよ」
「いえ。僕も手伝えることがあるかもしれないので」
残される嶺を気の毒だと思ったのか、そう言ってくれる浜野の気遣いがありがたかった。飴を口に入れたまま意識を失わないように、二人で戸伏に話しかけながら待つ。
「おい、大丈夫か?」
程なく久宝がやってきて、嶺もそこで漸く安堵した。白衣の白には人の心を落ち着かせる力があるのかもしれない。
「戸伏祐矢さん、二四歳。1型糖尿病で一時間前にインスリンを打ったそうです」
久宝が脈を診るのを待ってから伝えれば、助かる、と珍しく普通の言葉が返ってくる。
「一時間前ならそれは辛いな。インスリンの種類は分かるか?」
「……スマホがあれば。……執務室に」
「僕、戸伏さんのデスクから探してきます」
そう言って浜野が駆けていったから、車椅子を押す久宝と共にクリニックまで行くことにした。嶺がいても回復の役には立たないが、何か営業部に伝言があるようなら伝えに行くことはできる。
幸いクリニックでブドウ糖を与えられた彼は震えも治まり、診察室の隣の部屋のベッドで安静にしていることになった。叶未製薬製ブドウ糖。流石にそこは抜かりがないと、どうでもいいところに感心している嶺も、そろそろ用済みだろう。
「戸伏さん、ご家族に連絡はしなくていいのかな?」
「……大丈夫です」
「じゃあ、俺は戻るけど、営業部の人に伝言はある?」
「今日の夕方必要な書類がデスクの水色のバインダーに入っているって」
「分かった。伝えておく。……じゃあ先生、あとはお願いします」
そう言って去ろうとした嶺に、何故か久宝がついてくる。
「報告が的確で助かったよ。感謝する」
改めて礼を言われて瞬いてしまう。
「お役に立てたのならよかった」
「お前もしかして、社員全員の持病が頭に入っているのか?」