好きになったのはあなたです。

 会いたい、声が聞きたい、姿が見たい、触れたいと言われる人間が愛されているとは限らない。それはれいが嫌というほど求められて悟った現実だ。
 モテる訳でも見た目が特別美しい訳でもない。嶺がひっきりなしに声を掛けられるのは、社内で広まる噂のせいだ。
「いたいた。田胡たごさん、すみませんが一枚写真を撮らせてください。待ち受けにするので」
 その日も昼休みに休憩室に向かおうとしたところで呼び止められた。
「私、本気で好きな人ができたんです。だから告白するのにどうしても田胡さんの力が必要で」
 それで短くなった嶺の昼休憩は誰が補償してくれるのだと、そんな心の狭いことは言わない。嶺はこの会社の恋神こいがみだ。神は神らしく、いつも慈悲の心で相手と接しなければならない。
「いいよ。どうぞ」
 美しく、だがやりすぎにならない程度に微笑んでやれば、三枚連写した彼女が「ありがとうございます!」と頭を下げる。一枚と言わなかったかと思うが、今日はきちんとお礼を言ってくれるタイプだっただけマシだった。そう思う嶺に彼女が手を差し出してくる。
「これ、お礼です」
 手のひらに落とされたのは三十円のチョコが三つ。決して彼女がケチな訳ではなく、嶺が高価なものは受け取らないと宣言しているのだ。
「すみません。こんな子ども騙しみたいなもので」
「ううん。チョコ好きだから嬉しいよ。社内の人でしょう? 告白頑張ってね」
「凄い! 社内の人って分かっちゃうんですね。流石カナセカの恋神様です」
 そう言って嬉しそうに彼女が去っていく。
「……昼間からそんなにめかし込んでいれば分かるだろ」
 本物の神ではないので、そんな本音が零れるのはご愛敬だ。
 さて、今日は四時から予定が入っているから、それまでにルーティン業務を終わらせておきたい。いや、絶対に終わらせる。何故って嶺にとって二週に一度の癒しの時間だから。小さな会社だから正式な総務部員は嶺しかいない。いつもの仕事を一時間早く終わらせるためには昼休憩を削らなければならない。という訳で今日の昼食はバランスバーとオレンジジュースだ。これなら五分で食べ終わる。
 スマホチェックの時間すら惜しむように休憩室の席から立ちあがって、歯磨きを済ませたあと執務室に戻った。ここカナミセカンドスタッフは社員五十名程の小さな人材派遣会社だ。だがグループ企業のトップである叶未製薬かなみせいやくが手広く商売をしている関係で、五階建てのビルを丸々与えられている。ビルの一階にはカナミクリニック分院というクリニックが入っていて、福利厚生の一つで自由に診察に行けるようになっているのだ。極度の貧血の嶺も、二週間に一度金曜日に通うことになっている。
「──では、すみませんがクリニックに行ってきます。緊急の場合は電話をください」
 そう言って社内携帯を首からぶら下げて席を立つ。三時五十分。ご褒美がある人間の驚異の集中力で仕事を終わらせた。もう今日は仕事をしないつもりでデスクの片付けまで済ませている。
「ごゆっくり」
 快く送り出してくれる隣の企画部の社員たちは、診察に向かった嶺を呼び戻すことはしないだろう。他部署から嶺宛てに電話があっても、「田胡さんは今週はもう店じまいです」と言って切ってくれる。それがお互いさまのお約束。改めていい職場に転職できたものだと思う。緊急なら電話をくれという言葉と裏腹に、嶺の本音もせっかくの診察を中断するつもりなどない。
 エレベーターの鏡で軽く身形を直しながら一階に下りていく。あまり早く行っても迷惑になりそうなので、廊下の隅で五分前になるのを待って、それからクリニックまで歩いていく。
「こんにちは。田胡です」
 この時間はもう看護師がいないので、入り口を入って診察室の引き戸をノックした。
「待っていたよ。どうぞ」
 慣れた声が返ってきて、嬉しさが顔に出ないように入って、いつもの診察椅子に座る。
「こんにちは、田胡さん。体調はどう?」
 優しい微笑みで聞いてくれるのが、千木良ちぎらせいという嶺お気に入りの内科医だ。お気に入りというより、神でありながら恋をしている。彼がこのカナミクリニック分院の医師で責任者なのだ。
「お陰様で特に問題ありません」
 もちろん恋心は秘密だからクールに返す。病人と接するのが仕事の彼に、か弱いアピールは逆効果。それが嶺の持論だ。
「そっか。うーん、でも相変わらず数値があまりよくないんだよね。前も聞いたけど、鉄剤はやっぱり飲みたくないかな?」
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