本気の恋は占術不能
厄日はどこまでも厄日ということらしい。そう、それまで頭の片隅にもなかった厄日という言葉を出してくるのは、厄日に失礼だろうか。意味不明だが、とにかくそれほどのことがまた起きてしまった。
交代で休憩しながら研修会の進行を見守って、終了後に支店長たちをタクシーに乗せて見送った。あとはアンケート用紙を纏めて、ゴミの片付けと会場の簡単な掃除をするだけだ。しっかりした掃除は週明け清掃業者が入ってくれる。そう思っていたのに、厄介事というものは容赦がない。
まず講演中以外はずっと三崎に付き纏われていた藤原に軽い咳が出て、後輩の一人が休んでいるように言った。勧められた椅子に藤原が座る。そこまではよかった。三崎が付き纏ったのは彼のせいではないし、寧ろ厄介なマナー講師の機嫌を損ねず、帰すところまで相手をしたのだから上出来だ。講演中も三崎に舞台袖にいるように言われて、細々とした雑事を頼まれていたらしい。誰も藤原を責める人間はいないし、神崎も様子を見て彼を先に帰してやれないかと思っていたのだ。だがその後やってきた空気の読めない役員が余計だった。
「藤原くん、またお見事だったね。藤原くんのお陰で三崎先生も機嫌よく帰っていったし、君のお陰で本当にいい研修会になったよ」
ご機嫌で藤原の肩を叩く様子に背中に寒いものが走る。頼むからどこか余所でやってくれと思うが、それを本人に言う度胸はない。
「また次の回も頼むよ。他のみんなも藤原くんを見習うように」
そう言って去っていく彼に、「空気を読め!」と叫んでしまいそうだった。
端川の顔を見ることができずにいれば、そこで、役員と話をするために立ち上がっていた藤原が激しく咳き込んだ。
「藤原……」
「快晴!」
思わず駆け寄るが、それより先に、機械の片付けをしていた海堂が走ってきた。彼の背に腕を回して、護るように椅子に座らせる。
「吸入器は?」
鬼気迫る様子に思わず肩を震わせた。思い込みだと分かっていながら、邪魔だと突き放されたような気がする。藤原の背を擦る様子に、すっと気持ちが冷えた。まるで弱った恋人を抱いているようだ。そんな風に藤原のために駆けてくるなら、どうして役員が余計なことを言う前に間に入ってくれなかったのだ。どうして他のみなが嫌な思いをする前にフォローしてくれなかったのだと、彼に対する不満が湧いていく。
分かっている。海堂はずっと一人でシステムを見ていた。神崎たちと違って、講演中も音響や映像設備を見るために気を抜けなかった。分かっているのに抑えられない。今日は神崎だって大変だった。ずっと端川から藤原を護るにはどうしたらいいか考えていたのに、そんな自分が馬鹿らしくなる。
「六階に……」
「僕が取ってくるよ」
「いえ。自分で」
「じゃあ、一緒に行こうか」
恋人みたいなやりとりを眺めながら、忙しかった一日が走馬灯のように甦った。畑中の件で端川が怒って、その後三崎が欲しいという訳の分からない水を買いに行った。藤原がいない分の作業も引き受けて、そういえばお昼を食べることも忘れていた。研修会が終わったあとも端川と藤原を近づけないように気を遣っていたのに、この仕打ちはなんだ。何が神崎さんといて楽しかっただ。我を忘れて快晴と呼んでいるじゃないかと、感情が負のループに入ってしまう。
「待ってください」
海堂に支えられて出口に向かう藤原を呼び止めたのは、神崎ではなく端川だった。
「逃げないでホールの片付けをしてください」
酷い言葉に、ホールにいるメンバーが一斉に彼女に目を遣る。
「本当に体調が悪いんですか? お芝居なんじゃないんですか?」
「端川さん……」
流石にそれは言い過ぎと声を掛けようとして、それより先に海堂が彼女の前に立つ。
「体調が悪い人間にその言い方は感心しない」
怒っていた。さっき神崎の誤解を解こうとしてくれたときよりずっと厳しい顔。大事な藤原のために。彼を否定されたことがそんなに許せないのかと、端川を止めようとしたことも忘れて、海堂へのやりきれない想いが募っていく。
「藤原さんに言っています。海堂さんは黙っていてください」
端川は怯まない。
「藤原さんのお陰で研修会が成功したんですよね? 役員に褒められたんですよね? 私たちは藤原さんを見習えばいいんですよね? それならその分の仕事をしてください」
海堂の姿など見えていないように、呼吸を保つことで精一杯の藤原に言葉をぶつけ続ける。神崎が思うより余程溜まっていたのだろう。その迫力に、誰も彼女を止めることができない。
「藤原さんがこの研修会準備で、一体なんの仕事をしたっていうんですか? 電話もリストも神崎さんに任せて、システムの不具合をなんとかしたのは海堂さんです。今日あの馬鹿みたいなマナー講師に特別な水が欲しいと言われて、神崎さんが買いに出たことを知っていますか? 支店長たちが会場入りしたあと、私たちは十分ずつしか休憩を取っていないことは? 終わったあとみんなが少しでも早く帰れるように、受付の撤収作業を進めたことは? 神崎さんは総務部に残ったメンバーの様子を見に行ってくれたけど、それは本来藤原さんの仕事じゃないんですか?」
交代で休憩しながら研修会の進行を見守って、終了後に支店長たちをタクシーに乗せて見送った。あとはアンケート用紙を纏めて、ゴミの片付けと会場の簡単な掃除をするだけだ。しっかりした掃除は週明け清掃業者が入ってくれる。そう思っていたのに、厄介事というものは容赦がない。
まず講演中以外はずっと三崎に付き纏われていた藤原に軽い咳が出て、後輩の一人が休んでいるように言った。勧められた椅子に藤原が座る。そこまではよかった。三崎が付き纏ったのは彼のせいではないし、寧ろ厄介なマナー講師の機嫌を損ねず、帰すところまで相手をしたのだから上出来だ。講演中も三崎に舞台袖にいるように言われて、細々とした雑事を頼まれていたらしい。誰も藤原を責める人間はいないし、神崎も様子を見て彼を先に帰してやれないかと思っていたのだ。だがその後やってきた空気の読めない役員が余計だった。
「藤原くん、またお見事だったね。藤原くんのお陰で三崎先生も機嫌よく帰っていったし、君のお陰で本当にいい研修会になったよ」
ご機嫌で藤原の肩を叩く様子に背中に寒いものが走る。頼むからどこか余所でやってくれと思うが、それを本人に言う度胸はない。
「また次の回も頼むよ。他のみんなも藤原くんを見習うように」
そう言って去っていく彼に、「空気を読め!」と叫んでしまいそうだった。
端川の顔を見ることができずにいれば、そこで、役員と話をするために立ち上がっていた藤原が激しく咳き込んだ。
「藤原……」
「快晴!」
思わず駆け寄るが、それより先に、機械の片付けをしていた海堂が走ってきた。彼の背に腕を回して、護るように椅子に座らせる。
「吸入器は?」
鬼気迫る様子に思わず肩を震わせた。思い込みだと分かっていながら、邪魔だと突き放されたような気がする。藤原の背を擦る様子に、すっと気持ちが冷えた。まるで弱った恋人を抱いているようだ。そんな風に藤原のために駆けてくるなら、どうして役員が余計なことを言う前に間に入ってくれなかったのだ。どうして他のみなが嫌な思いをする前にフォローしてくれなかったのだと、彼に対する不満が湧いていく。
分かっている。海堂はずっと一人でシステムを見ていた。神崎たちと違って、講演中も音響や映像設備を見るために気を抜けなかった。分かっているのに抑えられない。今日は神崎だって大変だった。ずっと端川から藤原を護るにはどうしたらいいか考えていたのに、そんな自分が馬鹿らしくなる。
「六階に……」
「僕が取ってくるよ」
「いえ。自分で」
「じゃあ、一緒に行こうか」
恋人みたいなやりとりを眺めながら、忙しかった一日が走馬灯のように甦った。畑中の件で端川が怒って、その後三崎が欲しいという訳の分からない水を買いに行った。藤原がいない分の作業も引き受けて、そういえばお昼を食べることも忘れていた。研修会が終わったあとも端川と藤原を近づけないように気を遣っていたのに、この仕打ちはなんだ。何が神崎さんといて楽しかっただ。我を忘れて快晴と呼んでいるじゃないかと、感情が負のループに入ってしまう。
「待ってください」
海堂に支えられて出口に向かう藤原を呼び止めたのは、神崎ではなく端川だった。
「逃げないでホールの片付けをしてください」
酷い言葉に、ホールにいるメンバーが一斉に彼女に目を遣る。
「本当に体調が悪いんですか? お芝居なんじゃないんですか?」
「端川さん……」
流石にそれは言い過ぎと声を掛けようとして、それより先に海堂が彼女の前に立つ。
「体調が悪い人間にその言い方は感心しない」
怒っていた。さっき神崎の誤解を解こうとしてくれたときよりずっと厳しい顔。大事な藤原のために。彼を否定されたことがそんなに許せないのかと、端川を止めようとしたことも忘れて、海堂へのやりきれない想いが募っていく。
「藤原さんに言っています。海堂さんは黙っていてください」
端川は怯まない。
「藤原さんのお陰で研修会が成功したんですよね? 役員に褒められたんですよね? 私たちは藤原さんを見習えばいいんですよね? それならその分の仕事をしてください」
海堂の姿など見えていないように、呼吸を保つことで精一杯の藤原に言葉をぶつけ続ける。神崎が思うより余程溜まっていたのだろう。その迫力に、誰も彼女を止めることができない。
「藤原さんがこの研修会準備で、一体なんの仕事をしたっていうんですか? 電話もリストも神崎さんに任せて、システムの不具合をなんとかしたのは海堂さんです。今日あの馬鹿みたいなマナー講師に特別な水が欲しいと言われて、神崎さんが買いに出たことを知っていますか? 支店長たちが会場入りしたあと、私たちは十分ずつしか休憩を取っていないことは? 終わったあとみんなが少しでも早く帰れるように、受付の撤収作業を進めたことは? 神崎さんは総務部に残ったメンバーの様子を見に行ってくれたけど、それは本来藤原さんの仕事じゃないんですか?」