冷徹秘書のムーンストーン

 メンタルを病んでいても力の差は歴然だ。少し間違えば殺されてしまうこともあるだろうが、それも怖くなかった。正気をなくした鋭い眼。その眼の奥に、見捨てないでくれという本音が隠れていることを知っているから。
「……光栄です」
 逆らう気はないが、強く掴まれた肩が痛んで声が掠れた。そこで我に返ったように、彼の瞳が揺れる。
「……っ」
「巧さん」
 寝室ではなく制作部屋に向かってしまった彼を追えば、フローリングに座り込んで、彼が作業に入ってしまった。堀内やハウスキーパーがいなければ散らかり放題になる部屋の中で、この制作部屋だけはいつもきちんと保たれて他人の手出しが許されない。一つでもきちんとできる場所があると喜ぶこともできるが、堀内には、誰も入るなと拒絶する彼の心のように思える。傍にいろと言われているのに、彼との距離は気が遠くなるほど遠い。
「今日はもう休んだ方がいいですよ」
「一つ壊してしまったから」
「もうしばらく仕事は入れませんから、明日から好きなだけ作ればいいでしょう?」
「仕事はする。今日はたまたまできなかっただけだ」
「分かりました」
 こんなとき否定はしない。合田の中に、父親の会社など俺が潰してやるという気持ちと、以前のように働きたいという二つの気持ちがある。複雑な過去のある男だ。そんな男が才能を持って生まれてしまったことが、不運に拍車を掛けてしまったのかもしれない。
「でも少し食べてからにしましょう? ジュースだけでも」
「オレンジの」
「ちゃんと買ってありますよ」
 振り向いて堀内を見上げる顔がとても幼くて、なんだか泣きたい気持ちになった。
「作品を汚したらダメでしょう? キッチンに来てください。前に好きだと言ったバランスバーも買ってありますから」
「うん。瑛」
「どうかしました?」
 素直に立ち上がった彼が近づいたかと思えば、前置きもなく抱きしめてくる。偉そうな叱責をしながら身体は彼より一回り小さいから、堀内は彼の腕にすっぽり収まってしまう。
「ごめん、いつも。今日も」
「いいえ」
 そこに性的な意図は一切ないと分かっているから、堀内も堂々と抱き返して、その背中を撫でてやった。よかった。彼の体温を感じる。ゆっくりでも彼は回復している。一人で海の傍の別荘にいた頃とは違う。だから大丈夫だと、自身に言い聞かせるように胸の中で繰り返す。
「……食事をしましょう? 今夜は巧さんが眠るまでここにいますから」
 すっかり落ち着いた頃を見計らって、こちらから離れてやった。思うままに感情を晒して落ち着いた彼はごく普通の男性だから、色々と話してみたくなる。
「巧さん」
「んー?」
 バランスバーの新商品の味が気に入ったのか、二本目を食べ始めた彼のために、お粥も温めてやることにした。ぼんやりとした声を返しながら、対面カウンターから見る彼はやはりいい男で、見つめ続ければ囚われてしまう。下りた前髪が意思の強そうな眉を隠して、普段から男の色気を纏う顔立ちが、今夜は儚げにも見えるからどうしようもない。
『俺が一度あなたと過ごした晩を覚えていますか?』
 そう聞いたら、どんな答えが返ってくるだろう。時々衝動的に聞いてしまいたくなる問い。
『初対面だと言いましたけど、本当は覚えているんでしょう?』
 そう聞けたらすっきりするのに、結局いつものように呑み込んでしまう。
「何?」
「いえ。最近ずっと出社していませんので、たまには副社長室での仕事もどうかなと思って」
 合田金属販売の自社ビル最上階には、合田のために造られた副社長室と、その隣に堀内のための秘書室まであったりする。形から入ることで、少しでも早く合田が回復すればいいという敬助の気遣いだ。
「……考えておく」
「気が向かなければ今のままで構いませんよ」
 初めて会った晩、彼は最悪の状態だった。それを思い出させるのはよくないと分かっている。だから今夜も彼が眠るまで見守るだけで、大人しく退散することにする。
『朝の薬の時間に電話します』
9/46ページ
スキ