冷徹秘書のムーンストーン

 翌朝洗面を済ませてコーヒーを淹れていれば、敬助から電話が入った。
「朝早くに済まないね」
 社長だというのに、息子より先に社員を労ってくれるような彼を堀内は信頼している。
「今度の病院は巧に合うといいんだが」
「今日が三回目ですけど、特に先生に反抗することもないですし、いい感じだと思いますよ。症状自体がよくなっているのもあるでしょうけど」
「君にそう言ってもらえるのが一番心強い。医者の話で何か気になることがあれば連絡をくれ」
「分かりました」
 通話のあと身支度を終えてマンションの駐車場に向かう。車に興味などなかったが、一時、調子の悪い合田に深夜に呼び出されることが続いたため買ったのだ。コンパクトカーの中では高級な部類で色は青。青は人の心を落ち着かせると聞いたことがあるから、合田にもいいと思った。そんなおかしな理由で選んだものだが、今は買ってよかったと思う。その快適な車の窓から朝の景色を眺めて、途中見慣れた銀行の看板を目にしたところで、ふと敬助と初めて会った頃のことを思い出す。
 出会ったのは合田より敬助の方が先だった。前職の銀行に敬助が融資の相談にやってきて、追加融資を決めたのが堀内なのだ。
 合田金属販売(株)は装飾品とインテリアをメインに事業の拡大をしてきたが、当時売上は下降の一途で、そこに社長の不倫スキャンダルが出てしまうという最悪の状況だった。その社長本人が融資の相談に来ることが、事態の深刻さを物語っていたのだ。
 堀内が担当することになったのはリスクが大きかったから。失敗すれば堀内一人を切り捨ててしまえばいい。そんな大人の事情で、本来なら支代や課長クラスの案件を丸投げされた。業績が回復すれば利息とあとの取引でプラスになる。だが倒産されてしまえば、過去の融資分も含めて損失になる。
 法人事業部の経営支援課主任とはいえ、判断は独断でできる訳ではなかった。フローチャートとチェックリストがあって、片方でも不可と出れば融資はしない。だが合田金属販売は、二つとも融資可と出た上で行員が判断しなければならない嫌なパターンだった。チャートの判断がギリギリで、分岐点に怪しい選択がいくつか交じっている。ああ、だから判断を任されたのかと納得した。失敗すれば堀内一人の責任。出世に命を懸けるような上司たちが逃げるのも無理はない。
 とにかく社長の合田敬助と話そう。若手行員が一人で対応すると知った途端に怒って帰るようなら、そこで否決にすればいい。そう思っていたのに、敬助は当時まだ二六だった堀内にきちんと向き合ってくれた。不甲斐ない自分のせいで社員たちに迷惑を掛けている。彼らを路頭に迷わせる訳にはいかない。騒動でボロボロになった家族も立て直したい。そう本音を話してくれた彼に、堀内は融資の決裁を出した。感情論ではない。現状を冷静に把握している彼が、勝算もなく追加融資を申し込みに来たりしないと思ったのだ。
 結果、合田金属販売は経営を立て直し、翌々月に販売した美容ローラーがヒットして、負債もあっさりと解消した。担当者の一人に過ぎない堀内にも直接お礼にやってきた敬助に、銀行などいつ辞めてもいいと冷めていた心が少しだけ温められたのだ。
 その後美容ローラーの姉妹品で利益を拡大した合田金属販売は、装飾品から美容グッズにメインを移して売り上げを伸ばし続けている。敬助はまだ六十歳で、しばらく社長を続けることに問題もない。会社の問題は万事解決。だが家族の問題の解決は遠いという訳だ。
 合田のマンションに着いて、今日は病院だと言ってあるのに制作部屋で金属を弄っていた彼を叱りつけて着替えさせ、助手席にのせていつもの心療内科に連れていった。十分のカウンセリングだけ医師と二人きりにして、その後の会計と薬の説明は堀内が引き受けて、不機嫌な彼と帰ってくる。
「いつまでカウンセリングなんて行かなきゃいけないの? 俺はもうどこも悪くないのに」
 部屋に戻った彼が不満を零すのはいつものことだ。完治の遠い患者が「完治した」と言い張るのもよくあること。酔った人間が酔っていないというのと同じことだ。
「先生がいいと言うまででしょう? まだ薬も出ているんだし、車で移動して先生と話をするだけなんですから、別に苦ではないでしょう?」
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