冷徹秘書のムーンストーン

 夢も見ずに眠った。高井との行為は始終心地よくて、弱みを曝け出せるような安心感がある。こちらからも返したいと思うのに、今日は僕の好きにさせてと言われてずっと奉仕された。そのうち夢と現の境が曖昧になって、ただ快楽に浸ってしまう。
「ごめん。我慢できないから入れる」
 そう言って彼が入ってきたとき、確かに幸せだと思った。彼の言葉はシンプルで裏表がないから、不安なく傍にいられる。間違っていない。彼に抱かれてよかった。これは自分の意思だと思ったところで意識が落ちていく。
 失態に気づいたのは、遠慮がちに肩を揺すられて目覚めたときだ。
「ごめん。鞄の中でずっと携帯が鳴っているみたいで」
 勝手に鞄を開けたりせず、そのまま持ってきてくれるところが彼らしい。ぼんやりとそう思って、次の瞬間はっとする。
「今何時?」
「十時半かな」
 彼の答えとスマホを取り出すのが同時だった。早朝に目覚めて帰宅する予定が、これほど熟睡してしまうとは。思った以上に疲れていたのか。いや、今はそんなことを言っている場合ではない。一度コールをやめた電話が、逃すつもりはないというようにまた振動する。
「もしもし」
「漸く出たか」
 画面で相手を確認するまでもなかった。声の主は合田だ。
「今日、佐藤に待機を頼んでいないよな? それなのに何故お前も出ないんだ?」
 油断していた。目覚めてしばらく高井といても問題ないと思った。もっと言えば、今日呼び出しはないような気がしていた。だが実際は寝坊をして、そこに彼の電話が入るという最悪の状況だ。
「何かトラブルですか?」
「いいから早く来い」
 言葉のニュアンスから、トラブルなどないのだろうと思った。だが約束を破っているのは堀内だから、すぐに向かわなければならない。
「すみません。すぐに行かないと」
「送る。とりあえずシャワーを浴びてきて」
「助かります」
 そんな暇はないと分かっていた。だが彼に抱かれた身体のまま合田のところに行く気にはなれない。考えることを放棄するように彼の厚意に甘えてしまう。
「シャツとネクタイは僕のをつけておいて。上着はとりあえずスチームアイロンだけ掛けておいたから。洗面用具、足りないものはない?」
「いえ。ありがとうございます」
 至れり尽くせりの彼には、もう礼を言うしかなかった。
「じゃあ、行こう」
「何から何まですみません」
「もう、そんな顔しないで」
 自分がどんな顔をしているのか分からなかった。言われるまま駐車場に向かって、ナビを操作した彼の運転で合田の部屋に向かう。行員時代とすっかり立場が逆転している。
「一緒に謝りに行きたいところだけど、僕が出ていけば更に怒らせてしまいそうだね」
 その通りだ。高井を合田に会わせる訳にはいかない。
「どのみち、高井さんにそこまで迷惑を掛ける訳にはいきませんよ。大丈夫。不機嫌はよくあることなんです。今日は俺が悪いので、許してもらえるまで謝るだけで」
「……日曜は休日なのにね」
 思うところは沢山あるだろうに、一言で収めてしまえる彼は人間ができていた。
「すみません。合田さんが落ち着いたら、ちゃんとしますから。流された訳じゃないので」
 そう言ったら、彼がミラー越しにいつもの泣きそうな笑顔を見せる。
「ありがとう。でも今は僕のことまで考えなくていいよ。副社長さんのことを解決して、落ち着いたらまたデートしよう。それでいいから」
 どこまでも優しい言葉が胸に沁みた。
「少しでも食べておいて」
 さりげなく堀内の髪を撫でた彼が、いつの間に用意したのかゼリーとバランスバーの入ったビニールを差し出してくる。彼に運転させて自分だけ食べる訳にはいかない。そう思って気持ちだけいただこうとすれば、彼が前を見たままふっと笑う。
「遠慮しないで。大丈夫。恩を売って、恋人関係を撤回しづらくするのが目的だから」
 意外な策略に堀内も漸く小さく笑う。
「撤回なんてしませんよ。高井さんほど優しい男はいないと思いますから」
「それは光栄」
 現実逃避のように甘い時間を過ごすうちに、合田のマンション付近までやってくる。
「念のため少し離れた場所で降ろすよ。建物の傍まで一緒に行こうか?」
「いえ。巧さんが出てくるかもしれないので一人で行きます。彼が落ち着いたら連絡しますから」
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