冷徹秘書のムーンストーン

 こちらを見下ろすように宣言されて言い返せなかった。また作る。次はもっといいものを。前向きな台詞に喜べない。あの日、堀内にムーンストーンをくれたことにも意味がないと言われたようで苦しくなる。
「どうした?」
「いえ」
 いつまでも立ち止まっていて、彼の声で我に返った。合田が本来の彼を取り戻していくのに反比例で、堀内はぼんやりすることが増えている。これでは副社長秘書など続けられない。しっかりしなければと思うのに、これじゃただの秘書だと藻掻く気持ちを止められない。女性ならまだ救われた。何故作品を贈った相手が若い男性なのだろう。そんな子どもみたいな嫉妬を抱えて、合田の顔を見られないまま自社に戻る。
『立て続けで悪いのですが、また土曜日の待機を代わってもらっていいでしょうか? 日曜は俺が引き受けますので』
 気がつけば佐藤にメールを打っていた。高井は時間が空いたらいつでも連絡してほしいと言ってくれる。告白された身で彼の人柄に甘えるのは卑怯だと分かっている。だがそうでもしないと、自分が毒に侵されていくようで耐えられない。
「よかった。もう会ってくれないかもしれないって心配していたんだ」
 告白の返事をしないままのデートでも彼はスマートだった。もう一度あの美術館が見たいと言えば、また目の眩むような高級車で迎えに来てくれる。午後からゆっくり美術館鑑賞を楽しんで、この間とは違うレストランで少し早めの夕食になる。
「あの屏風の絵を描いた画家の画集があるけど見に来る? 結構重たいやつが、上中下巻と三冊ある」
「それは見たいです。画集まで持っているなんて、流石高井さん」
 あとから思えば不注意だった。告白された相手の部屋に行く。それも夕食を奢られたあとだ。何かあっても文句は言えない。決して初心なフリをして彼に全て決めてもらおうと思った訳ではない。だが正直、合田のことに疲れて、考えることを放棄したいという気持ちはあった。気づいたのは車がマンションの駐車場に到着したところで、帰ると言えば意識しているのがバレバレの一番情けないタイミングだ。
 高井に恥を晒すことに抵抗はなかった。ごめん、告白されたことを忘れていた。今日は帰る。そう言って帰ればいいのに、それも億劫で彼の部屋に向かってしまう。
「何か飲む?」
 紳士な彼は本当に画集を出してきてくれた。流行りの低層階仕様のマンションの二階。二階でも立地がいいから窓の外の景色が上質で、それもまた彼らしいと思う。
「いえ。これを眺めたら帰りますので」
「それは残念」
 そう言いながらも、彼はスパークリングとミネラルウォーターのボトルを手にキッチンから戻ってきた。勧められてミネラルウォーターの方を受け取る。過度の贅沢はないが、一つ一つきちんとした暮らし。こんな人間といれば日々心穏やかに暮らせるのだろう。高井は堀内が好きと言葉にしてくれるから、自分をどう思っているか悩む必要はないし、子どもみたいな嫉妬をすることもない。それが幸せというものではないだろうか。弱った心は心地いい方へと流されそうになる。
「お水、ありがとうございました。画集も。いいものを見せてもらいました」
 いや、ダメだろうと、けじめをつけて退散することにした。
「ここにいたら?」
 だが今度もまた、まっすぐに彼は言う。
「居心地は悪くないでしょう? 悩みがあるなら現実逃避も悪くないよ」
「悩みがあるなんて言いました?」
「半日一緒にいれば分かる」
 それは悪いことをした。悩む心は周りにも迷惑を掛けてしまう。
「すみません」
「謝ってほしい訳じゃない」
 彼がさりげなく、リビングのドアの前に立ってしまう。
「今夜は一緒にいよう? 嫌なら何もしない。堀内さんが部屋で一人悩むのかと思うと落ち着かないんだ」
 こんなに優しい口説き文句があるのかと思うほど、堀内を想う言葉だった。心が癒される。好きか嫌いかの二択なら好きなのだろう。それくらいは彼を求めている。
「タダで泊めてもらおうなんて思いません。ちゃんと対価は払います」
「そう。じゃあ、気が変わらないうちに」
 手からペットボトルが奪われて、気を取られるうちにキスをされた。唇はすぐに離れて、腕に抱かれたまま耳元で告げられる。
「今夜のことを盾に取ったりしない。ただ堀内さんに嫌なことを忘れて眠ってほしい」
36/46ページ
スキ