冷徹秘書のムーンストーン

 憑き物が落ちたように、彼は以前の彼に戻っていた。スーツを着て毎日副社長室に出勤する。堀内が心配するまでもなく、彼は自分の立場をよく分かっていた。突然社員たちに指示を出すようなこともないし、元いた広報部の仕事をさせてくれとも言わない。なるべく他の社員に会わないように副社長室に入って、佐藤からここ一年の売り上げや株価の講義を受けるのがメインだ。佐藤が出社できない日は堀内が決算書のレクチャーをしたり、敬助がやってきて話をしたりと穏やかな日々は続いた。十階は社長室と副社長室、それぞれの秘書室と会議室しかないから、合田もやりやすいのだろう。元々聡い彼は、すぐに仕事の堪を取り戻していく。
「すぐに戦力になれるなんて思っていない。使えるようになるまで半年は見てくれ」
 そう自分を客観視したことを言いながら、既に一つ成果を上げてしまった。移転先不明で郵送物が戻って放置状態だった取引先に連絡を取り、後日営業担当を向かわせるアポを取ってしまったのだ。「俺この会社の移転先知ってる」と言って電話を掛け、業績が悪くて移転していたと打ち明ける社長に、「俺も体調が悪くて引っ込んでいたけど、漸く復帰したんだ」と言って相手の心を開かせる。その会社が立ち直っていることは把握済み。合田の仕事ぶりを見るのはほぼ初めてだが、相手によって言葉遣いや声のトーンを変えて懐に入り込むスキルには感心した。マンションに籠もっていた時期は悩んでいただけかと思ったが、気になる取引先の状況は調べていたらしい。ずっと傍にいたのに気づかなかったなんて秘書失格だ。実は彼が時々見せる正常な部分を見ないようにしていたのかもしれない。弱って仕事ができなくても仕えるのは自分だけだと思ってほしかった。だとしたら、彼の回復を遅らせた一因は自分だろう。罪悪感に苛まれて、合田と逆に堀内が元気をなくしている。
「体調でも悪いのか?」
 ずっと堀内が彼に聞いてきたことを聞かれて苦笑した。体調は悪くない。このまま彼の傍にいていいのか悩んでいる。そんな本音は話せないから、普段より慎重に業務を熟すだけだ。
「この間は悪かった。待機を佐藤に頼むんなら休日は好きにしていい。誰と会おうと構わないし」
 そう言われたとき、気遣いだと分かっていながら傷ついた。もうお前はいらないと言われたようで、思った以上のダメージを受ける。秘書の仕事を辞めろと言われた訳ではないのに、動揺はなかなか引いてくれなかった。
 仕事を言い訳に、彼のプライベートに入り込む時間が大切だった。求めていたのは堀内の方だった。このままただの秘書としてやっていけるだろうか。心が持たなくなってしまうのではないか。そんな不安はすぐに現実になってしまう。
 週半ばに引き受けた取材の仕事だった。回復したように見えても心の病気に油断は禁物。派手なフラッシュ撮影と革紐のアクセサリーをNGにして受けた仕事だった。インスタントカメラで撮ったプライベート風の写真とインタビュー。小さなWebサイトでポップな記事にするという。
 スタジオを持つ制作会社に向かって、問題なく取材は進んだ。体調が回復した合田は以前とは別人のように、相手が求める答えを気の利いた表現で返していく。
 一時間で仕事は済んで、片付けをして帰ろうとしたときだった。撮影用に並べていた合田のアクセサリーの前で、若い社員が見惚れて動かなくなってしまった。
「田原くん、ぼーっとしていないでお客様のお帰りの準備を」
「あ、すみません! 綺麗だからつい」
 まだ一年目の社員だろうか。こちらが申し訳なくなるほど頭を下げるから、いえいえと笑って終わりにする。だがそこで合田がそのテーブルの前に立った。
「どれが一番好み?」
「え? えっと、これですかね」
「そう。じゃあ、やるよ」
 恐らく合田巧のファンでもあったのだろう。分かりやすく慌てる彼に、合田が躊躇いもなく作品の一つを差し出す。
「とんでもない」
「いいんだ。どうせ高いものでもないし、新作発表会に出せるような代物でもないし」
 その台詞に背にざらりとした感覚が走る。
「俺はまた沢山作るから、遠慮せずにどうぞ」
 重ねて言われて、戸惑いながらも彼は受け取った。
「大事にします」
「ああ。じゃあ、今日はどうも」
 機嫌よく取材部屋を出る彼にはっとして、堀内もスタッフに挨拶をしてから小走りで追いつく。
「いいんですか、あげてしまって?」
「どうせまた作る。次はもっといいものをな」
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